いまでは私たちが最も身を捧げるもの、最も愛するものであり、自己表現の場にしているのが仕事です。家族やコミュニティ、市民活動、教会、妻や夫よりも、仕事のほうが優先されています。
「仕事は何をされているんですか?」という初対面の人からの質問に答えたとき、自分がどう感じているのか考えてみてください。
プライドを感じますか? 恥ずかしいと感じますか? 自分自身の期待に届いていないとき、「私はただの〇〇です」と言いたいですか? 優越感を感じますか? 劣等感を感じますか? 自己防衛をしていますか? 真実を話していますか? 自分のステータスを上げるために、平凡な職業に風変わりな肩書を与えていませんか?
あなたは給与の額によって、人としての価値を測っていませんか? 高校の同窓会で話をするとき、同級生の成功を内心でどのように評価していますか? 充実した生活を送っているのか、自分の価値観に従って生きているのかなどと聞いていますか? それとも、どこで働いているのか、どのポジションで働いているのか、どこに住んでいるのか、どんな車に乗っているのか、子どもがどこの大学に通っているのか、そんなことを尋ねていませんか?
これらはありきたりな成功の象徴です。
人種差別や性差別とともに、私たちの社会には仕事を基準とした隠れたヒエラルキーがあります。
職業差別と呼ばれるもので、仕事や社交の場、家の中でも、他人とかかわる上で広く見られる現象です。そうでなければ、どうして専業主婦を二級市民と見なすのでしょうか? 教師が苦心している生徒を教えることは、医者が病気の患者を治療することと同じくらい価値があるのに、どうして教師を医師よりも社会的地位が低いと考えるのでしょうか?
自覚していようがいまいが、日々の交流の中では無意識に他人を生計の立て方で評価しているのです。