漆紫穂子(うるし・しほこ)
品川女子学院理事長
品川女子学院理事長。東京・品川生まれ。早稲田大学大学院国語国文学専攻科、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修了。私立中高一貫校で国語科教員として勤務後、品川中学校・高等学校(1991年に現校名に改称)に移る。2003年から卒業後10年目の自分の姿を意識してモチベーションを高める「28プロジェクト」を開始し、06年校長に就任。17年理事長に就任。教育再生実行会議委員、内閣官房行政改革推進本部構成員。著書に、『女の子が幸せになる子育て』(大和書房)、『働き女子が輝くために28歳までに身につけたいこと』(かんき出版)、『伸びる子の育て方』(ダイヤモンド社)など。
曽祖母が設立した“家業”を守る
――お会いしてから、もう30年くらいたちますね。
漆 最初からご存じですものね。当時は、この学校が経営的に厳しい状況でした。個人としては、最初に赴任した私立校で、国語科の教員を一生やっていたかったんです。環境に恵まれ、教員は天職と思えるほど幸せな日々でした。
しかし、情報源は定かではありませんが、都議会の資料とかいう「廃校危険指数」で、本校は財政状況や人気の点で上位に入る状況にあると聞きました。それにショックを受けて、実家に話に行ったら、学校の経理を見ていた母が末期がんで余命半年と言われて。
バスケット部やバレー部など、子どもの時から日曜日に試合があると、引率していった父に付いて、球拾いのお手伝いなどをしていた、卒業生のお家のような学校がなくなってしまう。父母には一言も手伝ってくれとは言われませんでした。誰に頼まれたわけでもありませんが、自分が後悔しない選択をしようと、1989年に父母が経営していたこの学校に入りました。ちょうど学校存続をかけた改革が始まろうとしていた時期です。
――たしか、当時は公立校みたいな名前の学校でした。隣の病院の看板が目立っていたのを覚えています。
漆 1991年に現校名に変える前は、品川中学校・高等学校という女子校でした。商業科もあり、公立中学校から推薦で生徒を集め、しつけをきちんとしてデパートや、地元の金融機関などに就職させるような学校でした。併設されていた中等部の1学年の在校生は、少ないときで5人、私の入ったときでも二十数人という状態。高校が10クラス前後なのに対して、中学は1クラスという構成でした。
勤務していた学校で中高一貫教育の良さを感じていたので、中学受験が大切だと考えました。とはいえ、まだ20代後半の教員で、経営の「ケ」の字も知りません。「3年間は自分の意見を言うな、発言すると居場所がなくなる」と、周囲から言われるような状態でもありました。
――その頃、最初にお会いしたわけですね。学校存続のために、何から手をつけたのですか。
漆 教職員は生徒のためによかれとみな一所懸命にやっていましたが、男女雇用機会均等法(1986年)という大きな時代の変化に取り残されている状況でした。
まず、生徒はどこから来るのか、と考えました。これからの世の中のニーズを考えると、進学支援をしない女子校の志望者は減る。一貫校の良さを生かすためにも中等部に力を入れる必要がありました。公立の中学校を回るだけではなく、中学受験塾に行って、親御さんのニーズをうかがいました
――学校の特命全権大使的に動いたわけですね。
漆 でも、自分には何の権限もなかったので、管理職に声が届きませんでした。「これをやったらいいよ」とアドバイスされ、その場で「やります!」と答えてきてしまい、学校に戻ってから「どうやってやるつもり?」とみんなを困らせることもありました。20代の私は立場が弱く、人を動かす力がない。そこで教育界の方々に来てもらって、教職員に学校の外の事情を話していただきました。
――日能研関東の創立者である小島勇さんとかですね。
漆 一人で外に行くと自分ばかり焦って、ますますみんなとの距離が開くので、複数の人と一緒に回るようにして、いろいろな教員の口から情報を共有してもらいました。当時は悟りを開きたくて、真冬に滝行までしたほどです。
――精神的にも追い詰められていたわけですね。
漆 なぜ学校に改革が必要なのか、それを共通理解にするのが大変でした。教員は子どもの安全を守る仕事なので、リスクに対しては敏感です。カウンセリングを学んで気付いたのですが、自分と他の人とでは見えている絵が違うのではないか。ゴールにある成果を見る人とプロセスにあるリスクや手間を見る人がいる。だから、いつまでも平行線なのだなと。