本遠隔リハビリについての論文は、第1波のピーク前の20年4月11日には米国リハビリテーション医学会の公式ジャーナル『American Journal of Physical Medicine & Rehabilitation』に速報で出版され、その後に同年12月10日発行の『JMIR Rehabilitation and Assistive Technologies』に詳細が掲載された。大高医師らは、「この遠隔リハビリシステムは市販のデバイスを用いたシステムであり、低コストかつ操作が簡便で臨床導入へのハードルが低いことが特徴。COVID-19パンデミックにより隔離状態にある感染者・患者に適用できる可能性がある」と結論付けている。

 新型コロナに対するワクチン開発と接種拡大では、世界にすっかり後れを取ってしまった日本だが、リハビリでは一歩リードすることができている。

「何でもあり」すなわち「何もない」
だから自由に切り開いてきた

 医学部卒業が翌年に迫った1996年、大高医師は進むべき道を決めかねていた。

「学生時代にはアメリカに短期留学し、ハーバード大学の先生など各分野の一流と呼ばれる人たちから薫陶を受ける機会にも恵まれましたが、何かワクワクしないなと。すごいなと思ったけど。よく分かっていなかっただけかもしれませんが、既に完成されているような気がして、未来の大きな広がりを感じるワクワク感がなかった。将来をかけるには何か足りない気がしたんです」

 もんもんとしている時に、強引に誘われたのがリハビリテーション科の説明会だった。

「国家試験の勉強しようと思って大学に行ったのに、門のところで剣道部の先輩に捕まって、拉致されるみたいに連れていかれました(笑)。まるで部活の勧誘です。まさかそんなきっかけで人生が変わるなんて思ってもいなかったのですが、初めて『リハビリ科っていうのがあるんだ』と知り(正確には授業もあり既に知っていたはずですが)、興味を持ちました。

 それで大学の図書館に行って、世界的に権威がある医学の教科書を見直してみると、当時のリハビリ科の教授(恩師の千野直一医師)の名前が出ていた。なるほど慶應のリハビリ科は、世界では知られた診療科なんだと大変感心し、あっさり入局してしまいました。

 教授から言われた『リハビリ科は何でもあり、好きなことができるよ』という言葉が決め手でしたね」

 ただ、1996年当時はやっとリハビリテーション科が標榜できるようになった年。「何でもあり」は、裏を返せば「何もない(未開拓ばかりのブルーオーシャン)」でもある。

「入局してみたら、他の科と違って、たくさんの上がいるわけではありませんでした。だから他科のように出来上がった徒弟制度の仕組みでの密な指導がない。やることが割と限られていて面白くないなと思っていたら、医者になって6年目、群馬県の関連病院に出向を命じられて、まだ専門医にもなっていないのに『リハビリ病棟を一棟立ち上げろ』と言われました」

 普通なら心細さで途方に暮れてもおかしくない状況だが…。

「全然平気でした。僕はどちらかというとベンチャー志向なので。運良くその病院の理事長が理解のある素晴らしい先生で、やりたいことをとことん自由にやらせてくれて、とても恵まれた環境でした。どんどん面白くなって、いつの間にか地域医療にはまっていました。リハビリというのは地域ともつながらなければできない医療なんですよ」

 特に注力したのは「転倒予防」だった。

「寿命の延伸とともに、転倒予防はその重要性を増しています。高齢者の3人に1人は1年間に一度以上の転倒を経験するとされ、転倒による不慮の事故は、窒息に続き第2位であり交通事故を上回っている。また高齢者の骨折の主原因であり、要介護の主要な原因の一つでもあります。

 最も効果的な介入は運動です。大事なのは、予防が最優先なのではなく、活動を豊かに保ちつつ転倒を予防するという視点です。この秋には名古屋で、第8回日本転倒予防学会という転倒予防の唯一の学会の大会長をします」