昭和の末期頃までは、高度成長の名残もあり、ビジネスモデルは一定で、経営環境もそれなりに安定していた。経営者の中にも「社長の仕事は人事のみ」という人がいて、それが支持されていた。すなわち人物を発見して評価し、引き上げること――将の将たる人物候補を見つけ、研鑽の機会を与えることに大きなエネルギーをかけていたのである。その際に、利用されたのが中国古典に見る人材鑑定法だったわけだ。

 しかし、平成以降は、グローバル競争の激化、ITなどの技術革新、規制緩和と業界の垣根の崩壊等で、ビジネスそのものの変化への対応に最優先で傾注せざるを得なくなってきた。まずは技術やルールといった知識が重視され、大人物の候補者に帝王学を学ばせるような余裕がなくなってしまったのだ。

 第二に、成果主義が導入され、乱世の中国に出現したような大人物を育成する環境が会社の中から完全になくなってしまったことである。関羽や張飛が劉備から半年ごとに目標設定をされ、評価されている状況を思い浮かべてみると吹き出してしまうであろう。一兵卒を真面目に働かせるための人事制度を、全員に同じように適用する一律平等の組織の中で、大人物を育成しようとしたり、中国の古典から何かを語ろうとしたりしても、あまりに状況が違いすぎて、何の参考にもならなくなってしまったのだ。

 第三に、米国的な人材観の興隆である。中国の古典では、大人物は徐々に自分からは動かなくなる。中心にいて、全体の紐帯となり、むしろ部下を自由に動かす。大きなことは決めるが、あとは「良きに計らえ」の態度を良しとする。一方、米国型はリーダーによる率先垂範が普通である。戦略を考え、自ら動いて現場を鼓舞し、大事な顧客には自分で営業する。リーダーは自ら語り、動き、人を奮起させる。中国的な大人物と米国的な大人物の姿はかなり違う。昭和(特に前期)世代は、子どもの時代に中国古典を読むことを半ば義務づけられたが、昭和の後期、平成の世代はむしろ米国のリーダー像から強い影響を受けている。思い浮かべるロールモデルが異なるのである。

 こんなことから、(一部の歴史ファンを除いては)中国古典をもとに幹部の人物像を語るなどということは誰もしなくなってしまったし、できなくなってしまったのである。

変化の激しいこれからの時代こそ
中国古典のリーダー像がヒントに

 日本の組織運営は、どうもいろんなところで間違って、本来はうまく適合できない木に竹を接いでいるような組織になっている。そして、新しい技術が続々と誕生し、社会のルールも日進月歩で変わるから、常に新しい知識が求められ、それらへの対応にきゅうきゅうとしている。新しい知識を知らないとトップの仕事はできないから仕方がないのだが、一方で、経営者に求められる大人物としての各要素を満たす人がほとんどいなくなっているのだ。

 中程度の人物はいるが、会社の浮沈をその双肩に担ってもらえそうな人物がいない。米国型の経営者を表面的にまねて、さっそうと舞台でプレゼンしてみても、どこかしっくりこない。さらに、米国由来のコーポレートガバナンスコードでは、取締役のスキルマトリックスを出せなどという。取締役間でそのバックグランドが多様性を持ち、必要なスキルを満たしていることを株主に示すのは合理性がないわけではないが、本来、経営のかじ取りを担当するものに必要な能力というのは、中国の古典にあるような上記の要件であって、「○○社で経理の経験が○年」「海外ビジネスの経験が○年」などと、要素に分解して、端的に表現できるような表層的なものではないのである。

 いくらでも多くの兵を率いることができる大将軍の韓信が、せいぜい十万くらいの兵を率いる能力しかない劉邦の部下になったのは、劉邦には、将の将たる特別な能力があったからだ。これからの時代、このような、スキルマトリックスなどでは到底測れない能力を持つ人をこそ、組織の中心に置き、その人のもとに全社で団結して変わっていかなくてはならない。

 幸い、昨今は漫画やアニメやゲームのおかげで再び中国古典の人間洞察についての興味関心が若い世代を中心に復活しつつある。三国志演義のマイナーな軍師では誰が好きかというランキングをつくったり、『キングダム』の王騎のメンターぶりや、蔡沢の外交力、蒙驁、蒙武、蒙恬三代の将の性格の違いなどを熱く語り合ったりする人たちもいるだろう。彼ら彼女らがビジネス社会のど真ん中に来る10年後、20年後には、アメリカニズムに強く影響を受けすぎた上の世代よりも、はるかにレベルの高い人間洞察に基づいた組織運営がされるようになるに違いない。

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)