『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』が、20万部を突破。分厚い788ページ、価格は税込3000円超、著者は正体を明かしていない「読書猿」……発売直後は多くの書店で完売が続出するという、異例づくしのヒットとなった。なぜ、本書はこれほど多くの人をひきつけているのか。この本を推してくれたキーパーソンへのインタビューで、その裏側に迫る。
今回は特別編として、日本最高峰の書評ブロガーDain氏と『週刊ダイヤモンド』特別付録「大人のためのBESTマンガ」を監修した読書猿氏の「マンガ対談」が実現。『独学大全』とあわせて読みたいマンガについて、縦横無尽に語ってもらった。(取材・構成/谷古宇浩司)
『ブルーピリオド』を「知」をめぐる話として読む
読書猿 この対談をはじめる前の打ち合わせでオススメマンガのリストを作ったじゃないですか。そのリストを見ながら改めて「ヤバイ、マンガ全然読んでないや」と(笑)。
Dain 僕もです(笑)。お互いのリストを見るのが楽しかったですね。
読書猿 未読を少しでも減らそうと頑張ったんですが、Dainさんのオススメの中で、今日まで実際に読めたのは実は『ブルーピリオド』(注1)だけだったんです。
Dain 『ブルーピリオド』は、絵を描く人、文を書く人、何かを作る人、あらゆるクリエイターが読んだら「うあああああ!」と胸をかきむしりたくなる作品ですよね。「これで大丈夫だろうか?」という不安や「自分でよいのだろうか?」という卑下した感覚でヒリヒリしてくる。
読書猿 この作品、絵を描くことに出会って美大を目指すというモチーフで、非常に面白かったんですが、これ、知らないことにぶつかって知ることで前に進む話、つまり「『知』をめぐる話」としても読めるなと思いました。
Dain 「『知』をめぐる話」! 確かにそうですね。
読書猿 この漫画には、2つの種類の悩みが出てきますよね。1つは「無知」、つまり、知らないがゆえの悩み。もう1つは「天才」だからこその悩み。
主人公の高校生 矢口八虎(やぐち やとら)くんは美術を全然知らないところからスタートしています。彼の悩みは「わからない」こと。(絵を描くために)何をしたらいいのかがわからない。少しわかって、ちょっと前に進めたと思ったら、また次の壁にぶち当たる。彼は無知を代表していて、苦しみながら、絵についてほんの少し知ることで前に進んでいく。それがこの作品の前面に出てくる悩みの一方の典型ですね。
Dain 僕は文学系YouTuberのスケザネさんたちと「『物語の探求』読書会」をやっていて、先日こんなことを話し合いました。読者をなじみのない世界に引き込もうとする時に作者がやってはいけないのは、主人公にいろいろと説明をさせることだと。その世界に生きている人は普通、その世界のことをあまり語りません。じゃあ、どうするかというと、無知な主人公が何かの壁にぶつかるたびに先輩や先生の立場にある登場人物たちが助言を授ける。そうすることで、読者はその世界のありようを主人公の目を通じて知ることになります。
「『物語の探求』読書会」のメンバーにはプロのシナリオライターがいて、その人はそういうことをファンタジーやSFの世界観を持つ作品でやるそうだけど、美術の世界でも一緒。僕自身、美術のことはほとんど知らないし、絵も描けないけど、『美術の歴史』(注2)を読んで「ゴンブリッジすげー」なんて思うことはある。
要するに僕のように「本の世界から美術に入った人」が、絵を描くってどういう世界なんだろうねっていうのを、八虎くんの目を通して知ることができる。これは、「無知な主人公」だからできることなんですよね。八虎くんは、高校2年まで絵とは無縁の世界で生きてきた。物語のスタート時点では、完全な素人です。だから、彼がぶつかる壁や試行錯誤が、そのまま「絵を描くとはどういうことか」への1つひとつの応答になっていると思います。
よく言われる、「見たままを描く」ってあるじゃないですか。絵を描く努力をしたことがない僕には、それがどれだけ大変か、ピンときませんでした。ですが、八虎くんがめちゃくちゃ努力して積み上げていくのを見て、「見たまま描く」とはどういうことか、わかるんです。
無知の対極、天才ゆえの苦悩
読書猿 この作品には、芸術の世界に入っていこうとする若者の他に、もうその世界で生きている人たちも出てきます。たとえば東京藝術大学(藝大)の教授で、猫屋敷あも先生といういかにもマンガっぽい描写をされる人、美術の世界でえげつなく生きている典型的な人がいます。
猫屋敷あも先生は、インスタ映えするあざとい作風といい、ファッションから喋り方まで計算し、作り込んだキャラといい、藝大唯一の女性教授ということも含めて、美術の世界で食べていくことがどういうことかを、「ある意味」てんこ盛りした登場人物です。
彼女には藝大にいるもう一方のタイプの教授たち、偏狭で自分勝手で時々思わせぶりなことを言っておけば周りが勝手に持ち上げてくれる天然キャラたち(こいつらが揃いも揃って男です)のように扱われることを、つゆほども期待していない。だからこそ、自分の持てるすべてを駆使してセルフ・ブランディングし、セルフ・プロデュースする。
彼女がちょっかいを出すのがもう1人の主人公にあたる高橋世田介(たかはし よたすけ)くんなんですよね。彼は天才で、社交的な八虎くんとは性格も正反対。美術に関して「わからない」となることはまずない。たとえば、初めて石膏のデッサンをしても「見えるように描けばいいんでしょ」と誰よりもうまく描けてしまう。猫屋敷先生は、才能はあるくせに自分の「売り方」を考えないで、むしろ嫌がる世之介くんにムカつくわけです。
Dain でも、世田介くんが「わかる」から悩みがないか、というとそんなことはない。
読書猿 はい。悩み事っていうのは、コンフリクトがあるわけですよね。八虎くんなら、たとえば、これが描きたいんだけど、どうやって描けばいいかわからない。やりたい/でもできない、というコンフリクトがある。世田介くんの悩みは逆に、できる/でもしたくない、というコンフリクトなんです。
Dain ゲーテの格言を思い出しました。「人生は全て次の2つから成り立っている。したいけど、できない。できるけど、したくない」。八虎くんは前者で、世田介くんは後者ですね。
読書猿 世田介くんはただうまいだけじゃなくて、自分の絵に自負もあるし、描くのが心の底では嫌いではないと思う。でも、画家になりたいとか、芸術家として成功したいとか、思ってない。小さい頃から絵がうまくて、親にあんたにはこの道しかないと言われてきて、まあ描くのは嫌いじゃないし、他のことはうまくできないし、続けてきたけど、才能ゆえに周囲からかけられる期待には辟易してる。他人の期待がいつも先回りしていて、彼がしたいことが形になる前に摘み取ってしまう。そんな彼に「美術の世界で生きるならもっと考えろ」と自己プロデュースの鬼である猫屋敷先生が言ってくるわけで(笑)、八虎くんに会ってなかったら、世田介くんはきっと藝大を辞めてしまったでしょうね。
ネタバレになるので言いませんが、八虎くんは(彼だけの功績ではないですが)ほんといい仕事をしました。期待の毒を解毒して、絵を描いていてよかったと世田介くんもやっと思えるようになるんです。
Dain はい、八虎くんとの「渋谷の夜」は大きかったと思います。でも、読書猿さんの指摘通り、八虎くんだけじゃなくって、他の人たちとの交流もあったと思います。世田介くん、予備校時代から壁を作ってて、「絵は1人でも描ける」「仲間といる必然性がない」みたいなスタンスだったじゃないですか。でも、そのままだったら最終的に絵を描く意味も見失っていたでしょう。でも、絵を描くことで伝わる何かに気づいたのは、それが伝わった仲間(八虎くんとか)がいたからじゃないかな……と思います。
お話の序盤で、八虎くんが美術の課題で描いた青い絵が、友達に「これ渋谷じゃね?」と伝わったように、世田介くんの絵が八虎くんに伝わったというところが、世田介くんの救いとなったのかな、と思います。その「伝わった」という感覚を知るためにも、やっぱり周りに人がいないと。そういう意味で、絵は1人では描けないと思います。
読書猿 そして、単行本だと10巻で、世田介くんは猫屋敷先生に言い返します。「何者かになる権利はあっても、義務はない」と。『ブルーピリオド』の中でも屈指の名言ですね。
「知らないものを知ること」の感動や怖さ
Dain あと、『せんせいのお人形』(注3)でも描かれていましたが、知らないものを知るということの感動や怖さが『ブルーピリオド』では印象的でした。いったん知ってしまったら、「知らなかった」ことには戻れませんから。たとえ、「知らなきゃよかった」ことであっても。そこに怖さがあります。
読書猿 そうそう「知る」って、いい意味でも悪い意味でも、取り返しのつかないことなんですよ。だから知らないものを知るのには「怖さ」もあるんですよね。
Dain 八虎くん、完全に初心者からスタートしているから、最初は感覚で色や構図を決めてきた。それができたのは、知らないから。先人たちが積み上げてきた絵の知恵がある。色なら色の関係性や配分量の知恵や、構図なら構造のセオリーがある。先生や友だちが、そうした知恵を言語化してくれるから、八虎くんはそれらを吸収していく……。
でも、知れば知るほど、正解がわからなくなっていく。絵のセオリーの知識は必要だけど、それで自分がどうしたいのか、何が描けるのかは別。絵を始めたのが遅いから、技術の拙さも、知れば知るほどわかってくる。入試のときも、課題のときも、「これでいいのだろうか?」と自問するシーンは、それだけ絵を描く怖さに触れているからこそ出てきたセリフなんだと思います。
読書猿 八虎くんって、何でもソツなくできる人じゃないですか。優等生だしウェイ系だし。勉強でも、人間関係でも、ちゃんと努力した上で、最適解にたどり着くことができる。でも、このマンガで彼が挑むのは美術という世界です。知れば知るほど、「これでいい」なんてないことがわかってくる。怖いと思いますよ。
『ブルーピリオド』とあわせて読みたい3作品
読書猿 『ブルーピリオド』から芋づる式につなげるとしたら、Dainさんはどんなマンガ作品を選びますか?
Dain リストに載せておけばよかったと思ったのが、東村アキコさんの『かくかくしかじか』です。娘にすすめられて、読んだらハマったんです。
主人公は高校生。田舎に住んでいて、絵やイラストを描くのが好きで、周りにうまいと褒められているので、じゃあ美大を受験するか、となる。でも現状の技術ではとても美大の試験にパスできないので、めちゃくちゃ努力する。東村さんの人生を振り返る話でもある。
絵画教室の日高(健三)先生がとても厳しくてスパルタなんです。デッサンの必要性については、日高先生は何も言ってなかったと記憶しています。主人公が「どうすれば描けるのか」と聞くと「よく見て描け」「見たまま描け」と。で、1回だけ、やって見せたことがあったはず。よーく観察して、ひたすらデッサンする。その数を何百枚と積み上げる。
人生の折々でスパルタ先生が「描け、ひたすら描け」「よく見て手を動かせ」と告げるシーンがあるのだけれど、(そしてその時の彼女はメッセージをきちんと受け止めないんだけれど)後半に行くにつれ、言葉の重さがどんどん加速してくる。最終巻なんて、涙で読むのが難しくなる。「描け」というメッセージは、もちろん彼女に向けられたものだけれど、「書け」と僕に向けられているかのように重なってくる。
「なぜデッサンなのか?」については、『ブルーピリオド』の美術の先生が「答えではなく、公式を学ぶようなもの」という言い方をしていました。結果、美大に合格するところは『かくかくしかじか』も『ブルーピリオド』も同じなんですが、「見たままを描く」は、美術をやる人の入口なんですね。
僕は「天才の悩み」を描いた作品があれば教えていただきたいです。
読書猿 美大もので言うと『ハチミツとクローバー』(ハチクロ)がそうだと思います。僕ら凡人が、決して知りたくはないし、普通なら知らなくてもいい人生の真理、すなわち、「天才とは、そして、その天才のかたわらで生きるとはどういうことか」に手を付けた作品です。作者の羽海野チカさんは友達がほしくてマンガを描き始めたと言いますが、なるほど、この天才は世界と和解するためにこの傑作を描いたのかもしれません。
でも、『ブルーピリオド』と『ハチクロ』は、問題の所在は全然違いますね。『ハチクロ』には天才に向けられる期待の毒って、ほとんど出てこない(注4)。天才の1人、森田さんは周りのことなんか全然気にしない野人だし(笑)、はぐちゃんは周囲のことをかなり気にする人ですけど(注5)、花本先生のフォローがあるのが大きい。『ハチクロ』はむしろ、「刃」は天才側から周囲に向かっている作品なんです。
あと、『ハチクロ』の登場人物たちはすでに大学生になってしまっている。美大受験って、浪人するのが当たり前、3浪とか4浪とかざらにある世界なんですけど……。自分を凡人だと思っている主人公の竹本佑太くんだって、多分現役で美大に受かっているんです(笑)。すごい天才とか、よくできる先輩とかが周囲にたくさんいるから自分を凡人だと思いこんでいるだけで。
『ブルーピリオド』は高2から始まって、美大を受けるための専門学校に行ってライバルに出会って、ほんの数人を除いてみんな落ちるなか、藝大に受かって、という3つのステップを踏みながら物語が進んでいく。八虎くんから見ると、『ハチクロ』の竹本くんは美術の世界ではずっと先に進んでいる人で、技術的にも僕らからすると八虎くんよりずっと秀でているように思えます。そのうえ家事もできるし、ママチャリで松島まで行ってしまうし。もっと自信を持ってもいい(笑)……って、僕がその渦中にいないから、そんな感想も持てるんですが。
『3月のライオン』(注6)の将棋の世界もそうだけど、美大というのは、天才ばかりが集まってくるところですよね。生活圏というか、自分の身の回りで出会える中で一番絵がうまかった人たちばかりが集まる。それで、あらためて自分の立ち位置を理解するところからスタートする。それが『ハチクロ』。
『ブルーピリオド』はその手前。なにしろ八虎くんは絵を描いたことがない。そこからスタートしているから、わからないことばかり。読者も同じ状況で、八虎くんの悩みと悪戦苦闘を通じて、美術のことを(この作品に)教えられる。彼、めちゃくちゃ努力しますからね。最後の最後まであがきながら考える。絵画の技術的な悩みから、何を主題にするのか、自分は何を描かなくちゃならないのかまで。描くことによる悩みと発見、無知と「知」の変化を追体験できる。
一度知ってしまったら、これまでのようには生きられない
読書猿 「知」とのつながりだと、今回リストに挙げた『チ。ー地球の運動についてー』(注7)。
「チ」は地面の「地」。地動説の話です。P国、C教とか書いてあって、これはポーランドで、キリスト教なのかな。アルストテレスとかプトレマイオスみたいな過去の学者は実名で出てくるんですけど、この物語世界(15世紀)で生きている人はフィクションにふさわしく架空の名前を付けられている。あと、こんな時代に地動説に関わるわけですから、登場人物たちはあんまり長生きできない。だいたいすぐに死んでしまう。
ちょっと僕には、登場人物たちの心理を追いかけるのが難しいというか、感情移入がしにくいところもあるんですが、こんな展開で物語を進めていいのかというくらいサクサク進みます。けれど、「知」に関するシーンは名言だらけ。「チ。」は地動説の「地」だといいましたが、実は「知」でもあるんじゃないか、と思うくらいです。
学はないが目のいい若者と性格の悪い学者がいて、2人があるきっかけから一緒に行動するようになるエピソードがあります。そこに数学少女が加わる。彼女は観測所に出入りしているんですけど、女性だから講義に参加できなかったり、自分が書いた論文も発表できなかったり、あるいは親切めかした男に勝手にそいつの名前で論文を発表されたりするなど、けっこうひどい目に遭っている。
当時はまだ望遠鏡はありませんでした。ガリレオ・ガリレイ(ユリウス暦1564年2月15日~グレゴリオ暦1642年1月8日)以前の時代の話なので、「星を裸眼で見ること」、それが星の観測なんです。だからなのか解剖学的に正確に描かれた目のアップが多い。目が大事なんですね。で、例の、目はいいけど字が読めない若者が、ある時いつもと同じ風景を見ていて「今日はなんだかすごくよく見えます」と言うシーンがある。学者と出会い、数学少女と出会い、若者なりにいろんな経験をした後なんです。「それが多分知るということだろう」と性格の悪い学者が彼に言う。
なぜ僕が「チ」は「地」であり、「知」であると思ったかというと、それが知識の特性というか「一度、知ってしまったら、これまでのようには考えられないし、生きられない」そのことがこの作品のモチーフになっていると思ったからです。この作品の世界では、地動説を唱えると人生が破滅する可能性が高いのだけれど、登場人物は知ってしまったゆえに後戻りができない。悔い改める、地動説を捨てる機会はみんなにあるんですが、でも知ったことをなしにはできない。だからみんな死ぬ。
観測所の一番偉い人で、今は老いてよぼよぼになった大学者がいるんですが、彼は天動説の正しさに命を懸けている。観測所の先代の所長もそう。先代に見込まれて、観測データを全部引き継いで、先代の夢、プトレマイオス以上に完璧な天動説を実現したいと思っている。でも、実は彼は若い頃に丸い金星を見たことがあるんです。彼には知識があるからその意味が分かる。だから自分ではそれを見間違いだと考えて、普段はそのことを忘れていました。そこに若者と学者がやってくる。学者は地動説が正しいと主張して、その理論構築には観測所のデータが必要だと。大学者は、だったら、どっちが正しいか、賭けをしようじゃないか、と。
そこで金星の話です。地球を中心にした天動説だと、金星は太陽と等角速度で動く導円の上にある周転円を描きますから、常に太陽側が照らされて、いつも欠けた状態で見えるはずなんです。つまり、かつて大学者が若い頃に見た「丸い金星」は、天動説の誤りを示すものだった。そして地動説を唱える学者と、目のよい若者がやってきた今、見えるならちょうど丸い金星が観測できる時期にあたる。さあ、金星が丸いかどうか、賭けをしようじゃないか、と。
この作品を読んでいて、やはり「知」の普遍性というのはあるのかなと思いました。そういう意味では、「知の不可逆性」をテーマとした作品だとも思いました。しかし、いまどき、地動説をテーマに据えるのがすごい(笑)。よくもわるくも『ヒストリエ』(注8)と同じ雰囲気を感じます。あの作品も、登場人物の感情をトレースできるかというとちょっと難しいんですけど。『ヒストリエ』の中の言葉でいうと「文化がちが~う!」ということなのかもしれません。
そう考えると、『チ。』の登場人物たちの性格は、確かにああいうふうに描かれざるを得なかったのだと思う。みんな考え方がちょっと極端だし、ちょっとずつ狂っている。そんな彼らが、時代に反逆するような「知」を得て、もっと外れてしまう。異端審問の拷問もあるし、ろくな目に合わないとわかりながらも、知ることに対して抵抗できない。どこまで行くんだ、この話と。こういう作品が連載されていること自体が驚きです。世の中を見ると、一見「知」なんて必要されていないように見えるのに。
書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」管理人
ブログのコンセプトは「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」。2020年4月30日(図書館の日)に『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』(技術評論社)を上梓。