「言い訳のぬるま湯」につかっていないか注意

「やれるかどうかわからないけれど、できるところまでやってみよう!」と覚悟を決めて挑戦する行動を、GさんとHさんが熱々の温泉に入るかどうかに例えてみましょう。

 Gさんは、見るからに熱々で、とても自分には入れそうもないけど、意を決して湯舟につかりました。我慢して入ったものの、やはりすぐ飛び上がって出てしまいました。そして、「やっぱり熱くて、とても自分には無理だ」と諦めました。

 一方のHさんは、「きっと熱すぎて入れないから自分は止めておこう。Gも無理だったし、自分でできないことを冷静に判断した自分は偉い。できないと想像したから入らない。この温泉以外のもうちょっとぬるい湯を探したほうがいい」と言ったとしましょう。

 このHさんの言い分は、一見自分の忍耐力を客観視し、そのうえでやれるかどうかを判断したように見えますが、これは「言い訳のぬるま湯」とも言える状態です。

 熱々の温泉には入れない、だからぬるま湯につかっておこう。同じお湯だし、変わらないよねと思っても、熱々温泉に入ったGさんは、上がった後に(成功したか失敗したかに関係なく)「挑戦してみた」という満足感で心が満たされたり、その体験で味わったことが教訓として心に残ったりします。

 一方のぬるま湯のHさんは、苦労も喜びも挫折も感動もないままで終わるので、この温泉のこと自体もあまり記憶には残らないでしょう。