2001年に旧住友銀行と三井系の旧さくら銀行が合併し、誕生した三井住友銀行。合併後の20年は、全く異なる出自と社風を持った旧財閥系銀行同士の「相克」と「融和」の歴史でもある。特集『三井住友 名門「財閥」の野望』(全18回)の#2では、OBら関係者の証言を基に、銀行が歩んだ知られざる20年の歴史をひもとく。(ダイヤモンド編集部 重石岳史)
今世紀初頭の銀行大再編時代
「三井」と「住友」が手を握った
2001年4月8日。JR有楽町駅そばの東京国際フォーラムに、1000人近い銀行員が一堂に会した。あまりの人の多さに机が足りず、手元のバインダーを机代わりにする者もいたほどだ。会場のホールは熱気に包まれていた。
その1週間前、旧住友銀行と旧さくら銀行が合併し、三井住友銀行が誕生した。東京国際フォーラムで開かれたのは、新銀行として第1回目となる部店長会議だ。
国内だけでなく、海外からも役員や拠点長らが参集し、両行の多くの行員にとって“初顔合わせ”の日となった。壇上には両行の経営会議メンバーが並び、中央には旧住友銀行頭取の西川善文、旧さくら銀行頭取の岡田明重が立った。新銀行の初代頭取に就いた西川は「バランスシートの抜本的強化」や「既成概念にとらわれない徹底的なコスト削減」を図り、トップバンクへまい進するという合併の狙いを述べている。
その日は両行の行員だけでなく、三井と住友という、日本を代表する二大財閥グループが交わった歴史的な瞬間だったといえる。
それぞれの銀行は明治時代に財閥の中核として設立され、戦後はグループ企業の成長を資金面で支えた。銀行を皮切りにその後、損保、建設、信託銀行で三井と住友の合併が進んだ。
だが、融和は安穏に進行したわけではない。異なる歴史を持つ異文化の接合には、衝突や対立がつきものだ。時のリーダーたちは、それを回避するためにどのような決断を下したのか。
三井と住友の合併協議の中で、西川を驚かせた、岡田のある提案がある。