矢野康治・財務事務次官の「バラマキ批判」論文に、多くの大手メディア、財界人、経済学者が同調している。その論調は、まるで政治家たちが、有権者の票を目当てに財政出動を約束し、国家財政を危うくしているかのような印象を与えている。しかし、実は、アメリカの有力な主流派経済学者たちの政策論は、矢野次官らが「バラマキ合戦」と嘆いた政治家たちの政策論に近いのだ。彼らの主張がいかに“時代遅れ”で、錯誤に満ちたものかを解説する。(評論家・中野剛志)

日本の「財政再建」を妨げているのは、矢野財務次官である「文藝春秋」11月号に掲載された矢野康治・財務次官の記事

矢野次官「論文」は完全に時代遅れである

 矢野康治・財務事務次官の『文藝春秋』(11月号)への寄稿は、大規模な経済対策、財政収支黒字化の凍結、消費税率の引き下げといった与野党の政策論を「バラマキ合戦」と強く批判し、新聞各紙(日経新聞朝日新聞「論座」)や財界人、経済学者(浜矩子・同志社大学大学院ビジネス研究科教授土居丈朗・慶應義塾大学教授)の多くが、これに同調している。

 こうした論調は、まるで政治家たちが、有権者の票を目当てに財政出動を約束し、国家財政を危うくしているかのような印象を与えている。

 ところが、米国の有力な経済学者たちの政策論は、実は、矢野次官が「バラマキ合戦」と嘆いた政治家たちの政策論の方にむしろ近いのである。

 それも、昨今流行りのMMT(現代貨幣理論)の話ではない。主流派経済学がそうなのだ。

 従来の主流派経済学は、確かに、財政健全化を重視し、財政政策は効果に乏しいとしていた。それが、この十年の間に、すっかり変わったのだ。

 契機となったのは、2008年の世界金融危機である。これ以降、先進国経済では、低成長、低インフレ、低金利の状態が続いた。

 主流派経済学の重鎮ローレンス・サマーズは、この状態を「長期停滞」と呼んだ。

 ちなみに、日本は、世界に先駆けて1990年代から長期停滞に陥っている。しかも、成長率、インフレ率、金利のいずれも、先進国中、最低水準だ。

 この長期停滞が、米国の主流派経済学における政策論に大きな変化をもたらしたのである。

 一般に不況対策としては、積極財政、金融緩和、構造改革が挙げられる。

 このうち、長期停滞下の日本が選んだのは、金融緩和と構造改革だった。積極財政は有効性が低く、後世にツケを残す政策として、忌避された。

 しかし、サマーズは、金融緩和と構造改革には否定的である。低金利下では、金融緩和は効果に乏しい。構造改革に至っては、逆効果だ。なぜなら、長期停滞の原因は需要不足にあるが、構造改革は需要ではなく供給を増やす政策だからだ。

 サマーズが推奨したのは、日本が忌避してきた政策、すなわち積極財政、とりわけ公共投資によるインフラ整備だったのである(注1)。

 ほかにも、2016年、FRB(連邦準備制度理事会)議長のジャネット・イエレンが、積極的な財政金融政策は、短期の景気刺激だけでなく、長期の成長にも有効だと強調した(注2)。

 同じ年、米大統領経済諮問委員会委員長ジェイソン・ファーマンは、財政政策に関して、次のような「新しい見解」が現れていると論じた。

 第一に、財政政策は、金融政策と補完的に用いられることで、経済を安定化する。

 第二に、裁量的な財政刺激策は非常に有効であり、民間投資を呼び込む(クラウド・イン)ことすらある。それによって、金利は上昇するが、それは経済にとってプラスであって、マイナスではない。

 第三に、財政刺激策の費用(金利)が低い現在は、財政政策の余地が大いにある。

 第四に、公共投資の支出先が効果的であれば、財政刺激策を継続することは望ましい場合が多い。

 第五に、国際協調による財政出動は、いっそう効果が大きくなる可能性がある。

 要するに、米国の主要な主流派経済学者たちの「新しい見解」からすれば、「バラマキ合戦」と称された政治家たちの政策論は、実は、正しいのである。

 それを批判する矢野次官、そして彼に賛同する経済学者やマスコミの方が、時代の変化に乗り遅れているのだ。

 実際、日本は長期停滞であるにもかかわらず、消費税率を引き上げたが、サマーズはそれに懸念を表明していた。ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツポール・クルーグマンも反対していた。元・米経済学会会長のオリヴィエ・ブランシャールに至っては、日本経済には、基礎的財政収支の赤字が長期にわたって必要だと主張した。

 だが、日本政府は、彼ら主流派経済学の権威たちの忠告に耳を貸さなかったのである。