【お寺の掲示板95】“雑用”という用事はない明導寺(熊本) 投稿者:@E9V9CF30PzJKm2b [2021年11月1日]

雑草という草はなく、雑魚というおさかなさんはいない。そう牧野富太郎とさかなクンは申しております。同様に、雑用という用事もないのです。それはどうでも良いと思う気持ちが生み出すものだからです。(解説/僧侶 江田智昭)

雑に用いるから雑用になる

「雑用」とは本来「種々の細々した用事」という意味があり、ネガティブな要素を持つものではありませんでした。それが現在では「どうでも良い面倒くさい用事」という意味で多くの人たちに捉えられています。今回の掲示板の中の「雑用」は、現在の悪い意味での「雑用」を指していると思われます。

 職場の中で雑用(どうでも良い用事)をいつも押し付けられることに不満を持っている人々が大勢います。しかし、そもそもこの世の中に雑用というものがあるのでしょうか?

 身の回りの仕事や用事を勝手に雑用と名付け、それらを雑に扱っていると、日常生活の中に雑用がどんどん増えていきます。かつて、植物学者の牧野富太郎が「雑草という草はない」と言ったそうですが、草と同じようにどんな用事も決して雑用ではありません。そのように名付けて、勝手に軽視しているだけです。

 昔、岡山の曹源寺に儀山(ぎざん)禅師という方がいました。弟子の宜牧(ぎぼく)が風呂たきの当番をしていたとき、儀山禅師が風呂のお湯が熱いから冷たい水を入れるように命じ、井戸から運んできた水を入れました。桶に水が少し余っていたので、宜牧がそれを地面に捨てたところ、儀山禅師は一喝しました。

「なぜ、その水を一滴でも草木にかけないのか?もし、水を草木にかけたら草木は喜ぶことだろう。仏道修行とは一滴の水、一本の草木にもしっかり気を配り、生かし切ることだ」

 叱られたことに対する自戒を込めて、宜牧は名前(道号)を「滴水(てきすい)」としました。滴水禅師は後に天龍寺の管長となり、「曹源の一滴水をいくら活用しても使い切ることはなかった」と言ってこの世を去ったといわれています。

 このエピソードはどんな仕事にも細かく配慮するところがあることを教えてくれます。ささいな仕事や用事と思っていても気を配らなければならないポイントは無数に存在します。そのことが分かっていれば、雑用と呼ばれるものは世の中に一切ないと気付くはずです。

 さまざまな用事を雑用とみなし、それらの仕事を雑にこなしている姿を周りの人たちはしっかり見ています。そして、多くのことを雑に扱っている人は次第に周りから雑に扱われるようになっていきます。職場の中で雑用ばかりを押し付けられていると嘆く人は、自分自身の一つ一つの仕事に対する考え方やスタンスを一度見直してみると良いかもしれません。

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」

 これは阪急電鉄創業者・小林一三の有名な言葉です。どんな仕事でも真剣に向き合えば、そこには必ず多くの気付きや学び、改善点があります。一つ一つの用事を雑に扱わず、常に丁寧に接していくことを心掛けていきましょう。