銃刀法違反から脱税発覚、5年間の刑務所生活がスタート

 花見から1ヵ月程度が過ぎた頃、今度は突然「六本木に来てほしい」と呼び出された。

「後になって、小野さんが3度目の結婚をすることになる『女』がクラブをオープンする、その開店祝いっていうことで。小野さんに聞くと、『この店は買ってあげた』って言ってた。多くの飲食店が入った雑居ビルの3階。店の名前は覚えてないけど、ドアの前にものすごい数の花が飾られていたね。その中には芸能人の名前もあった。店自体は、テーブル数が7~8席のこじんまりとしたところだったけど、いかにも『その筋』といった感じの人で溢れていた」

「その一人に、小野さんはおれのことを紹介したんだ。『お世話になってる○○さんです。雑誌をつくっていらっしゃいます』って。嫌な感じがしたけど、おれはその男と名刺交換した。紋章入りの名刺、肩書きには若頭補佐。小野さんがかつて所属していた組織の幹部で、組織の中での小野さんの『兄貴』だった」

 現在は、暴力団の組織名が入った名刺が一般人に渡されることは少なくなった。その行為自体が「脅迫」「恐喝」につながりかねないと、法で規制されるようになったためだ。90年代初頭に「暴力団対策法」が定められ、その後も暴力団への法・制度規制が厳しくなるなか、組織の構成員が「徒党を組んで街を歩くこと」「組織の者と名乗って仕事をすること」が禁じられている。さらに、近年になって全国的に定められた「暴力団排除条例」においては、一般の者が「組織の者と接触すること」自体も処罰対象とされるようになっている。

「勢い」に任せた「羽振りのいいアウトロー」である小野も、この流れに抗うことはできなかった。

「それからしばらく音沙汰がなくなって、こちらからわざわざ連絡することもなかったし、いつの間にか小野さんのことなんて忘れてたんだ。ところが、2000年代に入って、池袋のサウナの休憩室でたまたま手にした新聞を見て、驚いたね」

 その新聞には、小野が銃刀法違反で逮捕されたと書かれていたのだ。さらに、取り調べの過程で、小野が他人名義の会社を利用して進めていた「似非同和本販売」の実態が露呈。年間1億円を超える売上が計上されており、その半分近くが小野の手元に渡っていたことも明らかになる。

 この逮捕をきっかけに、一切納めていなかった税金の強制的な支払い、そして5年間の刑務所生活が始まった。

 小野の事件が各種メディアで報じられたのは、そこに当時の社会が迎えていた転機が象徴されていたからだ。先述の通り、1981年の商法改正によって、企業が「アウトロー」に対して金品を与えることは重罪となったものの、その後も形を変えながら、“一流”と称される企業においてもその「慣習」は続いていった。

 しかし、97年の金融スキャンダルを契機として、その「慣習」に本格的なメスが入っていくことになる。山一證券の破綻など、日本を支えてきた大手金融機関の経営悪化・破綻が公になるなかで発覚した、旧第一勧銀による利益供与事件。誰もが知る「一流企業」が、たった一人の総会屋に460億円を供与していたことをはじめ、様々な形で、断ち切ることができなかったアウトローとの「呪縛」が明るみに出た。

 この事件によって、当時の役員は軒並み辞任、また逮捕されることにもなり、事件以降、それまでとは比較にならないほど厳格に、水面下の「呪縛」が解かれていくことになる。省庁や有名大学を相手にしながら億単位の“売上”をつくった事件に対して、当時の警察やメディアが敏感に反応したのは想像に難くない。

「呪縛」を保ち続ける残党が消えた“シャバ”は、もはや「勢い」のみでのし上がってきた小野をふたたび受け入れる「余裕」を失っていった。「きれいな街」「いつでも手に入る情報」「誰も傷つかずに生き長らえさせる表面的な豊かさ」……本連載で幾度となく触れてきた通り、アウトローの世界もまた、もはや不可逆的な「漂白」のプロセスへと突入していったのだった。