頻繁な呼び出しに応じて事務所訪問、花見への参加

「数日後、おれは小野さんに断りの電話を入れたんだ。当時、雑誌も今よりも景気が良くて仕事が忙しかったし、さすがに似非同和本の制作に協力するのははばかられたから。小野さんも一度は俺の返事に納得したようだった。でも、その後、たびたび連絡がくるようになって。特に用事がないのに、なぜか俺を呼びだそうとしてきた」

「あの頃、小野さんは毎朝、目黒駅の近くにあったルノアールに行って、窓際の席に座って携帯電話であれこれと指示をしていた。人との打ち合わせもそこで。集まってくる人間はとにかく有象無象で魑魅魍魎。そんな人たちの中心にいて、いかにもボスらしい感じで威張ってた。そこに俺を呼んで『雑誌の仕事のネタにもなるんじゃないのか』なんて取り込もうとするわけ」

「周囲の人たちは、小野さんのことを『会長』と呼んで恐れている感じだった。実際、あの頃の小野さんは羽振りがよかったからね。改めて小野さんの『正体』を紹介者に聞いたら、ある右翼団体の会長で、以前は広域暴力団の3次団体の幹部組員だったと」

 彼は「事務所見るか?」と小野から誘われたことがある。「事務所」とは、出版社の事務所ではなく、右翼団体の事務所のことだった。

手榴弾を投げ込んだ彼が消えるまで――街宣車に置かれたカセットケースには、走行中に流される軍歌のリストが

 都内の住宅街にあった2階建の大きな一軒家。その2階部分を右翼団体の事務所とし、1階部分を住居としていた。家の前の駐車スペースには街宣車が停まり、白い特攻服を着た“若い衆”が出入りしていた。

 小野が普段使っている大きな机の後ろの壁には、日の丸が掲げられている。席に座ると若い衆がお茶を運んできた。

「そしたら『ちょっと時間ある?いま、うちの団体の新聞をつくっててさ、キャッチコピー考えてほしいんだ』って言われた。勢いのある、まだ40代前半の小野さんは圧迫感あったからね。おれは首を縦に振るしかなかった。内容は忘れたけど、その場で適当に新聞のコピーを考えて、ワープロに打ち込んだ」

 小野は「ほれ」と財布から1万円札を抜き取ると、彼に差し出してきた。一瞬ためらったが、「小遣いをもらうわけではない。コピーを書いた報酬だ」と自分に言い聞かせて、受け取った。

「その後も、小野さんはことあるごとにおれに電話してきた。新聞のキャッチコピーの件以外には、とりたてて何か仕事をさせようという感じではなかった。いま思えば、文章も書けるし、出版関係に顔も効くおれを“押さえて”おきたかったんだろうね。アウトロー系の人たちの多くは、何かとマスコミ関係の人間を手中に収めたがる。何か記事を書かせようというわけじゃなくても、『マスコミに知り合いがいる』ってことが、恐喝のときなんかに『使える』ってことなんだろうね」

 翌年の春、桜の季節には「花見」に誘われた。場所は上野公園。花見の当日、所用を終えて開始時刻の19時から1時間ほど遅れて到着した。現場には、20名以上の若い衆とその家族や彼女がおり、大いに盛り上がっていた。この頃が小野の「絶頂期」だったのかもしれない。宴もたけなわとなったとき、小野は立ち上がると、しゃがれた大声で一席設け始めた。

「お前たちのおかげで、我がBもますます絶好調だ。来週は靖国だ。張り切っていこう。この調子で日本をダメにする奴らを斬りまくろう。腐った企業を叩きのめそう。ビビってるんじゃないぞ。体張れ、体。カンパイ!」

 喝采を送る若い衆たち。すると、酒の回った小野が声をかけてきた。

「どうだ、飲んでるか!どんどん飲んで、これからも活躍してもらわないといけないからな」