上司の「思い込み」が、
部下の可能性を殺す

 これは、私にとって非常に大きな体験でした。

 それまで、私は、「指導」とは「教える」ことだと思い込んでいました。もちろん、それが間違いというわけではありません。実際、私の「営業手法」を教え込むことで、営業マンとして育っていったメンバーもいたからです。

 しかし、「教える」ことだけが「指導」ではありません。むしろ、そう考えることの弊害のほうが大きいと言えるでしょう。なぜなら、私の「やり方」が合わないメンバーに教え込もうとすると、彼らの可能性を殺してしまうおそれすらあるからです。

 先ほどご紹介したメンバーがまさにそうです。

 私は、彼に「一日百軒の飛び込み営業」をなかば強制して、私なりの「営業手法」を教え込もうとしました。そして、飲み込みの悪い彼を「営業に向いてないんじゃないか?」と決め付けようとさえし始めていました。

 しかし、それは単に、私が「指導=教える」という固定観念に囚われていただけのこと。そのために、彼の可能性を殺しかねなかったのだと思うと、今でも背筋が寒くなる思いがします。

 ただ、私はラッキーでした。あのとき、私は管理職として追い詰められていたために、彼をなんとしても「育成」する必要があったからです。だからこそ、自分の「指導=教える」という「思い込み」を捨てることができたのだと思います。

 もしも、追い詰められてなければ、飲み込みの悪い彼を見捨てて、自分で彼の分の売上をあげようとしたはずです。その意味で、追い詰められたときこそ、自分を大きく成長させるチャンスと言えるのかもしれません。

 そして、私は、彼の話に虚心坦懐に耳を傾けることで、その「志向性」「適性」を探り当て、それを活かす方向で彼の背中を押すことにしました。もちろん、私は上司として、彼が失敗しないようにできる限りのことをしましたが、それはあくまでサポートの範疇。自発性を尊重することによって、彼は「自走する人材」へと、勝手に「育っていった」のです。

部下の「才能」を見つけ、
それを最大限に発揮させる

 あのとき、私は彼に「指導するとはどういうことか?」を教えてもらったような気がしたものです。

「指導=教える」と考えていると、下手をすると上司の「やり方」をトレースするだけの“傭兵”を育てることしかできない。しかも、その「やり方」をトレースすることのできない人材を切り捨てながら……。それは、管理職としてあまりにも危険なことではないでしょうか。

 むしろ、こう考えるべきなのです。

「指導」とは、メンバー一人ひとりの「志向性」「適正」を把握して、それを最大限に発揮する機会を提供すること。そして、彼らの自発性を尊重しながら、成功体験を得られるように全力でサポートすることである、と。

 もちろん、彼のように劇的な成功を収めるケースばかりではありませんが、一人ひとりと粘り強く向き合いながら、その「志向性」「適性」を引き出す努力を続けることで、必ずメンバーは「自走する人材」へと育っていくのです。

 すべての人には、その人なりの「才能(向いていること)」があります。

 上司がすべきことは、その「才能」を見つけてあげること。そして、その「才能」を最大限に発揮させてあげることです。それこそが、「指導」ということの本質的な意味なのです(詳しくは『課長2.0』をご参照ください)。