無観客開催で自国開催の意義は消えた

 2021年1月1日にダイヤモンド・オンラインでつづった『東京2020はなぜ中止にならないか?五輪生存をかけたIOCの「信念」』では、「コロナ禍で開催されるオリンピックは、史上最大の参加選手数も、史上最大の観客動員数も、史上最大の収益も目標にできないが、コロナ禍でも『スポーツが平和的な競争の中に人々を参集する力がある』ことを示すことができれば、コロナを超克した将来のオリンピックを作る『隅の親石』となりうる」(抄)と記した。

 このように私がつづったのは、菅義偉前首相が「コロナに打ち勝った証しとして五輪を開催する」と約束した限り、日本は全力でコロナの感染を管理し、「安心安全な東京オリンピック・パラリンピック」を開催するだろうと思っていたからだ。しかし、日本のワクチン確保も十分でなく、ワクチン接種はなかなか進まなかった。

 さらに、7月12日から4度目の緊急事態宣言に入らざるを得なくなったが、五輪開会式は7月23日に迫っていて、五輪開催反対の空気が強まるのも無理のない状況だった。しかし、さすがに中止にはできず、「緊急事態宣言下でいかに五輪を開催するのか」という命題に答えを出さざるを得ず、結果、無観客開催という最後の手段に頼ることになる。

 1964年の東京オリンピックが残せたものを東京2020が残せなかったとすれば、その原因は無観客ということに尽きる。

 開催国の人間、開催都市の住民という意識が薄れ、他の国で行われているオリンピックをテレビで観戦する感覚との違いがなかった。換言すれば、臨場感がなかったことが大きい。テレビでの観戦においてもその画面に観客がいるのといないのでは、臨場感が全く違う。将来デジタル技術によって遠隔でもスタジアム観戦と同様の体験が獲得できるようになるかもしれないが、東京2020での実現には時間が足りなかった。

 では、これまでと同じスタイルの五輪が開催できなくても、五輪を開催する意味とは何か?