承認欲求と達成欲求は違う
そうなると承認欲求から解放されるのは難しいばかりか、他人からはずいぶん傲慢で高飛車な人間に見えるはずです。そうやって自分の悪い部分を受け入れられないことが、「理想の自分像」から本当の自分をますます遠ざけてしまっているという事実には気がつくことすらできず、無意識に他人に嘘をついてしまう。嘘の自分を作り上げてしまう。「盛った自分」を見せてしまう。見栄を張って、自分は本来の姿よりも尊敬されるべき存在だし、しかも君たちの誰よりも尊敬されるべき存在なのだ、という態度をとる癖がついてしまう。悪いループに陥っていくばかり。
優しくて、
頭がよくて、
知識もあって、
人望があって、
仕事が出来て、
見た目もイケてて、
エトセトラ、エトセトラ……。
勝手に妄想の「みんな」を作り出して、いつのまにか目に見えない「みんな」にどうしたら認めてもらえるかということを中心に意思決定をしてしまうのです。気が付かないうちに。別に本当の「みんな」は自分にそこまで注目しているはずもないのに、勝手に意識してその妄想のために努力している。本当は存在しないはずの「みんな」に認められるための意思決定をする。自分本来の意思よりも。ずっと自分のしっぽを追いかけてぐるぐる回っている犬と同じ。
結局こういう承認欲求の根源は、「愛されたい」という寂しさです。愛への渇望です。
つまり、承認欲求の正体は、「不安」や「孤独」や「寂しさ」なのではないかと、私は考えています。幼い頃に寂しい思いをした人、親族からのプレッシャーの大きかった人、比べられることが多かった人、あるいは一人の時間が多かった人。こういう経験を多くしてきた人ほど、大人になってから承認欲求に苛まれやすいのではないか、と。
あるいはほとんどの人間は、自分の意思よりも他人の評価を尊重したくなってしまうものなのかもしれない。よっぽど強い意思と、よっぽど強い自分なりの哲学を持っていない限り。ぐるぐると周りのこと、そしてこれまでの自分のことを振り返った結果、私はそう、結論付けました。どんなに「多様性の時代」と言われようと、個性を認める時代であろうと、自分の意思を貫き続けるために必要とされる「勇気」や「気力」は、あまりにも大きすぎる。一般大衆から村八分にされるかもしれないリスクと、自分の哲学を天秤にかけて、それでも自分の哲学を押し通せる強い人間が、果たしてこの世にどれだけ存在するのだろうか。
「自分の信念を通すだけだから、別に嫌われてもなんとも思わない」と口にする人たちのうち、はたしていったい何人が、誰に嫌われてもかまわないと「本当に」思えているのでしょうか。だれだって他人から愛されたくて当然です。嫌われたって何も嬉しくもない。それよりも自分の信念を通すことの方を優先できるというのは、よっぽど達観した人じゃなければ無理でしょう。
いやいや、そんなことはない。自分は本当に誰にも認められなくても構わないと思っている。そういう人もたしかにいるでしょう。でもならば、あえて声高に「別にどう思われてもいいからさ」と発言するのは何故?「承認欲求なんていらないよね」とSNSに書き込むのは何故?「人の目なんか気にしてたってしょうがないじゃん」と、飲み会で後輩に頼まれてもいない説教をするのは何故?
あるいは、こういう本音に気がつかないふりをしているだけではないのかと、意地の悪い私はつい思ってしまうのです。
「それだけ固い信念を持っている自分じゃないと、みんなから尊敬されない」
「完璧な人格者である自分なら、他人に嫌われようが信念を通せるはずだ」
つまり、「他人の評価を気にしない自分」という理想のイメージにとらわれて、自分の本心と向き合えずにいるだけじゃないのか、と。