封建体制とは?

 諸侯には周王室との血縁関係の程度や、領地の大小によって、公(こう)・侯(こう)・伯(はく)・子(し)・男(だん)の5つのランク(爵(しゃく))が授けられました。

 諸侯には封土を与えられた代償として、周王に対して貢納と軍事奉仕を行う義務がありました。

 また諸侯の配下には、卿(けい)・大夫(たいふ)・士(し)などの世襲の家臣団がつくられ、彼らは諸侯に対して貢納と軍事奉仕の義務を負う、という支配構造がつくられたのです。

 この体制は「封建(ほうけん)」と呼ばれました。

 中世のヨーロッパで、家臣と主君との契約関係から生じた封建体制とは、王朝との血縁関係が基盤となっている点に相違があります。

 周の封建体制は時を経るにしたがって、周王と世襲諸侯との血縁関係が希薄となり、諸侯の自立傾向が強まりました。

 また北西の草原地帯では異民族の勢力が増大し始めました。

 ついにBC771年、犬戎(けんじゅう)と呼ばれたチベット系の異民族が鎬京(こうけい)に侵入しました。

 周の有力王族は鎬京を捨てて東へ逃れ、洛邑(らくゆう)(現在の洛陽(らくよう))に遷都しました。

 この事件によって、周室に独占的に囲われていた金文職人(きんぶんしょくにん)(青銅器に金文を彫り込む技術を持った識字階級)が四散し、諸侯に雇われるようになりました。

 周王から威信財(いしんざい)として青銅器を下賜(かし)されていた諸侯も初めて金文を読めるようになったのです。

 青銅器に書かれていたのは、文王、武王、周公旦(しゅうこうたん)をはじめとする周室の歴史でした。

 それを読み解いた諸侯は周室の長い歴史に圧倒され、実力的にはより非力になったにもかかわらず、周王を尊敬するようになりました。

 こうして中華思想が誕生したのです(中華とはもともと周の本貫地〈ほんがんち〉を指す言葉でした)。

 そして、東周は、さらに500年以上も生き延びることになります。

 建国してから鎬京を都としていた時代の周を西周(BC1023-BC771)、東の洛邑へ遷都した後の周を東周(BC771-BC249)と呼びます。

 この東遷事件によって周の版図は縮小し、国力は弱体化しました。

 逆に諸侯の勢力は強まり、中国は政情不安な動乱期に入っていきます。

 周の東遷から、秦が中国を統一するまでの約550年間を、春秋・戦国時代と呼びます。

・春秋時代(BC771-BC453)
・戦国時代(BC453-BC221)

 春秋時代は周王の権威が、まだ残っていた時代です。

 そこで有力な諸侯たちは、会盟という同盟を結んでお互いの大規模な武力衝突を避けつつ、周王朝の権威を自分たちの勢力拡大に利用しようと考えました。

 しかし周王朝を倒そうとはしませんでした。

 この有力な諸侯は「覇者」と呼ばれました。

 中でも有力であった覇者は「春秋の五覇」と呼ばれました。

 代表的な存在が斉(せい)の桓(かん)公と晋(しん)の文公です。

 覇者たちは小規模な武力衝突は続けていましたが、自ら王と名乗ることはせず、周王を認めていました。

 そこには伝統的な周室に対する尊敬の念もあったことでしょう。

 しかし現実的な問題として、自分たちの国もさして強力でも豊かでもなかった、という理由があったと思われます。

 当時はまだ鉄製の農機具が普及していませんでした。

 耕作は非効率であり、生産性も低かった。それゆえ、大量な余剰生産物は得られませんでした。

 そのため、どの諸侯も他を圧倒する強国にはなれなかった。強力な軍団や組織を維持する官僚集団を養うほどの、財力が持てなかったのです。

 しかしBC500年前後から、地球の温暖化が始まりました。

 ほぼ同じ頃に、鉄製の農機具が行き渡るようになりました。

 太陽の恵みと鉄製の農機具の威力が、一気に農業の生産性を高めました。

 当然人口も増加します。

 そして階級分化も激しくなり貧富の差が顕著になります。

 そのことが有閑(ゆう かん)階級の存在を可能にさせ、「知の爆発」につながったのでした。

 同時に、そのことは覇者と呼ばれた強国を中心として、覇権争奪のトラブルを増大させ激化させました。