「人種・民族に関する問題は根深い…」。コロナ禍で起こった人種差別反対デモを見てそう感じた人が多かっただろう。差別や戦争、政治、経済など、実は世界で起こっている問題の“根っこ”には民族問題があることが多い。芸術や文化にも“民族”を扱ったものは非常に多く、もはやビジネスパーソンの必須教養と言ってもいいだろう。本連載では、世界96カ国で学んだ元外交官・山中俊之氏による著書、『ビジネスエリートの必須教養 「世界の民族」超入門』(ダイヤモンド社)から、多様性・SDGsの時代の世界基準の教養をお伝えしていく。

傲慢な中国に教えてあげたい台湾の「民族の歴史」Photo: Adobe Stock

台湾と中国をセットで考えてはいけない

 台湾は、地理的には東アジアの国ですが、民族的に考えると漢民族がやってくる前にもともと住んでいた人々は東南アジアの国々に近い。それなのにこんなことをうっかり口にしたら、地雷を踏みます。

「台湾って、政治の問題で別の国になっているけれど、結局は中国の一部ですよね」

 明らかに知識不足の意見といわざるを得ず、台湾はもともと東南アジアの島嶼部と近いさまざまな民族が住むまったく別の国でした。

 漢民族が移住する前は民族的にはフィリピン、インドネシア、マレーシアと近かったのです。

 現在の台湾は多民族国家で、漢民族の他、多くの少数民族が暮らしています。少数民族の大半は、もともと台湾に暮らしていた人たちでした。

 漢民族が本格的に台湾に住み始めたのは17世紀。日本人の母を持つ明の軍人の鄭成功が、清に明が滅ぼされたのち、新たな拠点としたのが台湾です。

 当時の台湾を統治していたオランダ東インド会社を一掃して新政権を作ったことで、彼は台湾では歴史上の英雄です。

 台湾のビジネスパーソンと会話をする際に日本人の血が入っていることなどぜひとも話に入れたい人物です。

 近松門左衛門は、鄭成功をモデルに、「国性爺合戦」を書き、浄瑠璃さらに歌舞伎として上演されました。

 史実とは違う面もありますが、日本でも大人気を博している演劇の演目である点などは話題として適切でしょう。

 鄭成功に続く形で、満州人の国である清に反発する人々が中国本土から台湾に移住した――これが、漢民族が台湾に増えた第一のタイミングです。

 その後台湾は清に併合され、より漢民族は増えました。地理的に近い福建省の漢民族が多く移住しました。

 台湾に漢民族が増えた第二のタイミングは、いわずと知れた第二次世界大戦後。日清戦争の後、日本統治下に置かれていた台湾に、蔣介石率いる中華民国・南京国民政府軍がやってきました。

 すでに台湾には漢民族が大勢いましたし、日本よりは同じ漢民族に統治されたほうが良いかと思えば、そうはいきませんでした。

 国の権力は新たに中国からやってきた漢民族(外省人)が独占し、もともと台湾に住んでいた漢民族(本省人)は疎外されました。

 少数民族たちは差別され、治安も乱れました。そこで「中国からきた国民政府軍(外省人)VS本省人+少数民族のチーム台湾」という対立構造が生まれ、二・二八事件が起きます。

 しかし、チーム台湾の反発は武力で押さえつけられ、なんと1987年まで戒厳令が敷かれていたのです。

 このような歴史を見れば、中国と台湾は政治的に対立構造にあるのはもちろんのこと、別の国であることも明らかです。

 もっとも、第二次世界大戦後に大陸から移ってきた人たちは今もコネクションがありますし、同じ北京語を使うことから、経済的には中国本土との関係性は強い。

 実際、台湾系企業は中国本土で事業をして成功を収めてきています。すなわち、ビジネスパーソンが中国と台湾の関係を見る場合は、「安易に同じ民族と一括りにしない」「政治と経済は別のものと捉え、ビジネス上のつながりに目を向ける」という二つの視点が不可欠です。

 標準語である中国語、台湾語(国民党来訪以前の台湾在住漢民族の言葉、大陸の福建省の言葉が源)、先住民族のさまざまな言語(ただし話者は大変に少なく消滅の危機にあり)と、台湾は言語的には三重構造といえるでしょう。

 アジアで初めて同性間の婚姻を合法化するなど、多様性を重んじていますが、多民族国家として生きる道は、たやすくありません。

 たとえば、台湾の第6代総統である馬英九はハーバード大学を卒業したエリートですが、家庭教師をつけて台湾語を学んでいたといいます。馬は香港に生まれ、出生後まもなく台湾に移住した台湾育ちながら、台湾語は勉強しないと話せなかったようです。

 漢民族が多くてもルーツは異なり、中国とは同化したくない――台湾にはそんな苦悩があります。“隣人”として、台湾についてしっかりと押さえておきましょう。