重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。
合理的な判断が失敗の原因
1968年の8月半ば、私は年季の入ったランドローバーで大学時代の友人たちと、チェコスロバキアとの国境沿いのハンガリーの道路を走っていた。トルコ東部への小旅行をはじめたばかりだった。
驚いたのは、ソ連装甲部隊の戦車輸送車の列がゆっくりと走っていたことだ。私たちは、それをうまくかわして運転しなければならなかった。私たちも、英内閣府の合同情報委員会(JIC)も知らなかったことだが、部隊は国境を越えてチェコスロバキアに侵攻する命令を受けていた。
当時、ソ連国家保安委員会(KGB)の議長だったユーリ・アンドロポフは、チェコスロバキアの民主化を進めたアレクサンデル・ドゥプチェク共産党第1書記が率いる改革志向の政府を弱体化させようとしていた。同国への侵攻は、その目的のための脅迫と欺瞞の双子の戦略の一環だった。
アメリカ・イギリス・北大西洋条約機構(NATO)の情報分析官は、ソ連の軍事配備に気づいていた。衛星観測や無線傍受から隠しようのないことだったからだ。私は翌年、英政府通信本部(GCHQ)に入り、当時の状況を知った。
西側の外交政策関係者も、アレクサンデル・ドゥプチェク共産党第1書記の改革案をめぐるソ連とチェコスロバキアの言論戦を注視していた。チェコスロバキアの人々同様、「人間の顔をした社会主義」というドゥプチェクの理念が、硬直化したスターリン主義にとって代わることを望んだ。
ドゥプチェクは報道・言論・移動の自由拡大、消費財重視の経済政策、秘密警察の権力の縮小、さらに複数政党による選挙の実現を政治綱領に掲げて、チェコスロバキア共産党第1書記の座に就いた。
改革は国民の支持に押されて、急ピッチで進められた。行き過ぎというモスクワからの度重なる警告も無視したようだ。1968年、チェコスロバキア政府はソ連の支配下から抜け出す危険を冒そうとしていた。
JICでは、情報政策の高官たちが「ファイブアイズ」(アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドの5ヵ国で機密情報を共有する枠組み)の代表と会合を持ち、ソ連が1956年の「ハンガリー動乱」のときのように、武力行使するつもりかどうかを検討した。これは政策立案者のために、次に起こることを予見するという一般人からは最も重要に見える分析の局面だ。
うまくいけば満足感を得られるものの、情報のプロは自分たちの仕事を誇張しているとして「予見」という言葉を避けている。
チェコスロバキアとの国境近くにいるたくさんの戦車が、改革派の政権に圧力をかけていることを、情報分析官は容易に説明できた。自分たちが状況をきちんと認識し、軍事レベルで何が起こっているかを納得させる説明ができたと感じていただろう。ところが、次の展開としてソ連がチェコスロバキアに侵攻し、改革運動を暴力的に押しつぶすことは予測できなかった。
それどころか、ソ連は国際社会から非難を浴びることを嫌って、残忍な直接介入を避けるだろうと合理的に判断した。この「合理的」という言葉が、情報分析官の失敗の原因を説明している。合理的な人々が、非合理的な政権の動きを予測しようとしたせいだった。ソ連の政策決定者の立場になって考えはしたものの、自分たちの視点を捨てきれなかったのだ。