現代でもロシアは
ソ連時代と同じ戦略を用いている

いまは歴史研究から、チェコスロバキアの改革を押しつぶすというソ連指導部の決断について、当時よりもずっと多くのことが明らかになっている。チェコスロバキアの改革派に対する積極的措置を立案したのがKGB議長のユーリ・アンドロポフだということが当時わかっていれば、西側の情報分析官も、ソ連は巨大なリスクを負うことを厭わないという結論に達していただろう。

のちにソ連共産党の書記長になるアンドロポフが、ブレジネフ書記長の主要な側近であることを警鐘とするべきだった。アンドロポフには、決まったやり方があった。ハンガリー駐在大使だった1956年には、ハンガリーの問題は武力で片づけるしかないと、当時のソ連の最高指導者フルシチョフを説得する決定的役割を演じた。ハンガリー動乱は学生の抗議行動からはじまり、最終的には自由選挙と軍事同盟のワルシャワ条約機構からの脱退を掲げた新政府樹立をめざす武装蜂起となった。

アンドロポフが用いた主な手法の1つは、「不法入国者」の活用だった。西側がそれを知ったのは1992年、KGBの文書管理官であり、英秘密情報部(MI6)の情報源となったワシリー・ミトロヒンの報告からだった。

それによると、選抜され、特別な訓練を受けたKGBの工作員が、1968年にチェコスロバキアに送り込まれた。工作員は旅行者・ジャーナリスト・ビジネスマン・学生を装い、西ドイツ・オーストリア・イギリス・スイス・メキシコの偽造パスポートを与えられた。

それぞれに月300ドルの手当て・旅費・アパートの家賃が支給され、チェコスロバキアの反体制派の信用を得ることが期待された。彼らの役割は、作家組合・急進的ジャーナリスト・大学・政治団体などの改革派の集まりに加わり、反体制派の評判をおとしめるような「積極的手段」を講じることだった。

フルシチョフは(アメリカの武器庫が見つかった、アメリカによるチェコスロバキアの政治体制転覆計画を示したとする偽造文書があったなどと)西側の挑発と妨害行為を声高に非難した。こうした状況をチェコスロバキアに対する内政干渉を正当化するために用いたのだが、そもそもKGBの「不法入国者」が起こしたことだった。

1968年夏、帝国主義者の陰謀を防ぐことを大義名分として、ソ連は軍事同盟のワルシャワ条約機構加盟の4ヵ国とともにチェコスロバキアに軍隊を送り込み、空港や官公庁の建物を占拠し、軍人たちを兵舎に監禁した。チェコスロバキアのドゥプチェク共産党第1書記は、同志とともにKGBに護衛されてモスクワに飛んだ。そこでかなり脅され、占領者の要求に従うという現実を受け入れた。

現代でもロシアはソ連時代と同じ戦略を用いて、EUに傾くウクライナを阻止した。ところが西側の情報分析官は、ソ連の歴史を理解していながら、ロシアのクリミア半島併合やウクライナ東部への軍事介入を予測できなかった。

ソ連が、脅し・宣伝活動、1968年にチェコスロバキアに潜入したKGBのリトル・グレイメンの活用など、卑劣な手段を過去に用いたことを知っていたのに、「リトル・グリーンメン」とメディアが呼んだロシアの特殊部隊がウクライナに現れたことに驚いたのだ。

デビッド・オマンド(David Omand)
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。