大人になると「悩んではいけない側」に急に放り込まれてしまう

まあそれはともかく、彼に振られたことは、私自身の存在を疑うことになる、大きな転機となった。

どうして私はいま、悲しいんだろう、苦しいんだろう。何が嫌なんだろう。どうして彼はあんなことを言ったんだろう。彼が言ったことは本心だったのだろうか。だったら私が主張していたことは、全部間違いだったのか。私の「真剣さ」はやっぱり間違いだったのか。彼が正しかったのか。これまで私の話を聞いてくれていた人たちも、内心では私のことを笑っていたのだろうか。わかってくれていると思っていた、早稲田の友達も。意味わからないことを言って、偉そうにして、バカだな、と。

「紗生の考えていることに意味が見出せない」と言われてもなお、失恋してもなお、ぐるぐるととりとめもなく自分のもやもやを細かく分析しようとしてしまっている自分を、私はどこか冷静に見ていた。彼に考えることを否定されても、気がつけば、こうして自分の苦しい感情を分析しようとしてしまっている。

そう、もう仕方のないことなのだった。私は、こうして考えて分析することが、好きで好きでたまらないのだ。

どうして、どうしてと考え続けることや、人間のなかにどんな感情があるのかを深く深くほりさげていくことは、私のアイデンティティでもあった。それは踊るのが好きな子が音楽がなると勝手に体が動いてしまうことや、お料理が好きな子が何を食べてもこれはどんな具材と調味料から作られているのだろうと考えてしまうことと、なんら変わらなかった。ただ私は生まれつき、考えることが好きだった。文学の研究やお金を儲けることや政治にはまったく興味がわかなかったけれど、身近なことを考えるのは好きだった。自分や、家族や友人が何を考え、何を思い、何を大事にして生きているのかを考えるのはとても好きだった。面白いと思った。

でも私にとってはまた、運の悪いことに、この考えるという作業に、定義も、一般的に広まっている名前もなかった。だから私は自分の好きなことを人に伝えようとするとき、うまく説明できなくて何度も悔しい思いをした。音楽が好きなんだ、スポーツが好きなんだ、ビジネスが好きなんだ。「好き」という気持ちは同じなのに、みんながやるようにはっきりと説明できないのが、もどかしかった。誰とも共有できないことが寂しかった。心から好きなのだと、だれかに指図されなくてもやらずにはいられないくらい好きなんだと伝えられない。だから結局私は、「何が好きか」という質問をされたとき、いつも口ごもってしまうのだった。もしまた、彼が言っていたように「この人、すごいやつなのかただの変なやつなのかわからないな」と思われたら嫌だったからだ。だから私は結局そのときそのときで適当に、「読書が好き」とか「映画が好き」とか「散歩が好き」とか、無難な答えをするしかなかった。

「そんなことで悩んでいても何も前にすすまないよ。時間の無駄だよ。そんな暇あったらどんどん挑戦しなきゃ」

先輩にそう説教され、本屋で「シンプル」「悩まない」「前向きになる」という言葉を見たとき、走馬灯のようにこれまでのことを思い出した。小学生の頃に感じた蔑みの視線を思い出した。中学のときの「よくわかんない」と言った友達の心底興味のなさそうな声を思い出した。私を振った彼の言葉を思い出した。

私は人生最大級のもやもやを胸の奥にかかえて、今にも沸騰しそうになっていた。耳から湯気が出そうなくらいに。

どうして?
どうしてみんな、「悩むな」って言うんだろう?
どうして、悩むことは間違ってるみたいに言うんだろう。
どうして当然のように、悩まずに、苦しまずに、考えすぎずに、前向きに肩の力をぬいて行動するのが正しくて、不安や恐怖をかかえて苦しむことが、間違いみたいに言うんだろう。悩んでうじうじと落ち込むのは、時間の無駄みたいに言うんだろう。

子どもの頃は、それでも、自由にあばれることができた。泣いたり笑ったり、怒ったり、感情を爆発させることができた。悩んで苦しんで、わがままを言うことができた。でも大人になるにつれ、素直に悩むことができなくなっていく。自分の気持ちに蓋をするのが、うまくなっていく。苦しいとか悲しいとか怒ったとか、そういうマイナスの感情を押し殺せるのが大人なのだ。感情をむき出しにしないのが大人のマナーなのだ。自分がどんなに辛くても、辛くないふりをしなければならないのが、大人なのだ。いや、わかる。それはわかる。お金をもらって働いている以上、仕事場に私情を持ち込むのはフェアではない。輪を乱すような感情は表に出されるべきではない。それはわかる。わかるけど。なんか、何かが、むなしいというか、寂しいというか。

私は一歩一歩大人に近づくにつれ、感情をコントロールする方法を学んでいった。私よりも大人の先輩や親は、感情に蓋をする方法を知っていた。みんな平気な顔をしていた。泣きたくても泣かなかった。私もそうならなければならないんだと思い始めた。大人というのは理性で生きなければならないのだ。悩みは誰にでもある。でもそれをずっと悩み続けるのではなく、行動したり頭でいいきかせたりして、なるべく苦しまないようにしなければならないのが、世間で言う、大人なのだ。仕事をしはじめると、悩みもどんどん増える。自分はだめだと思うことも増える。自信もなくなる。でも大人は「悩むな」と言う。「悩んでいる暇があったら仕事しろ」と言う。ぐいぐい動け、先輩から仕事を奪うくらいの勢いでやれ。悩む暇もなく働け。じゃないと成長しないぞ。私の周りの大人はそう言った。貴重な人生をそんなことで無駄にするなと言った。たくさんの本にも、そう書いてあった。むしろ「悩んでも仕方がない」というのは当然の、普遍的な、ゆるぎない事実であるということを前提に書いてある本もあった。前書きに「誰でもできることなら悩まずに幸せに生きていきたいですよね」と書いてある本もあった。

でも、どうして。

疑問や不満がものすごい勢いで膨らんで、心のなかでぱあん、と大きく、はじけた。

悲しかった。そんなことで悩む自分は幸せじゃないと言われているみたいで、間違っている人間だと言われているみたいで、悲しかった。

どうして誰も、わかってくれないんだろう。

どうしてみんな、悩まない方法ばかり探すんだろう。楽に生きる方法ばかり探すんだろう。ありのままの自分を受け入れることばかり、すすめているんだろう。悩まずに肩の力をぬいて、前向きに生きることが幸せだと、なんの疑いもなく、どうして思えるんだろう。

ねえ、誰か。
誰か、誰か、誰でもいいから、教えて。
どうして大人は、一番言ってほしい言葉を、子どもの頃なら平気で言ってもらえた言葉を、言ってもらえないのかなあ。
どうして誰も、「悩んでもいいよ」って、言ってくれないのかなあ。
たった、一言だ。
その一言で、救われるのに。

どうして大人になったというだけで、「悩んじゃいけない側」に、来てしまったんだろう。いつのまにその境界線を、乗り越えていたんだろう。いつのまに、許されないことが、増えていたんだろう。
苦しかった。怖かった。自分は人と違うのかもしれないということが、自分が好きなものは、人にとっては好きの対象になりえないということが、寂しかった。

誰でもよかった。本当に誰でもよかった。たった一人でいい。ほんの一人でいいから、お願いだから、「悩むのはおかしくないよ」って、悩め、悩め、どんどん悩めって、言って欲しかった。

楽に生きる必要が、肩の力をぬいて生きる必要が、どこにあるというのだろう。
苦しまずに、悩まずに生きなければならない理由が、どこにあるというのだろう。
役に立たなかったり、結果につながらなかったり、何の意味も見出せないようなことに時間を使うと、どうして罪悪感を覚えてしまうんだろう。
いったい誰が決めたんだろう。悩まずに生きるのが幸せだなんて、誰が言ったんだろう。どどうしてそれが常識になっているのだろう。