いろんな煩悩に振り回される自分でいい

悩むのは、たしかに苦しいし、辛い。できることなら悩みなんてない方が幸せなのかもしれない。

でも、何の悩みもない人生ほどつまらないことはないと、私は思う。いや、思いたい。

これがしたい、あれがしたい、ああなればいいのに、こうなればいいのに、認めて欲しい、自分を証明したい。自信をつけたい。自分のこういうところが嫌。こういうところを直したい。あの子みたいだったらいいのに。どうしてあの子はできるのに、私はできないの。どうしてうまくいかないの。どうして私はダメなんだろう。

まるで日めくりカレンダーみたいに、自分のコンプレックスや悩みを、ひとつひとつ、数える毎日だ。それが、私にとっての日常だ。今日、ひとつのコンプレックスが消えても、明日にはまた新しいコンプレックスが見つかる。どんなに毎日自分の悩みを解決しようとしても、いつまでたっても、完璧な自分になんて近づけている気がしない。むしろ、自分を知れば知るほど、理想からは遠ざかっているような気さえする。

嫉妬や、妬みを抱えて、まわりの人間と比べて卑下して、自分なんかもうだめだと思って、まわりを落とすことで自分を上げようとして。他人の足をひっぱろうとして、他人を見下して、バカにして、そういう自分に気がついては、自己嫌悪して。

そうやって苦しんで悩んで、それでも毎日は進む。だめなところをひとつひとつ数えながら生きる。前に進んでいるのか、それとも後退しているのか、そもそも自分は何を目指して生きているのか、わからない。人生に何を求めているのか、最終地点はどこなのか、まったくわからない。

でも、そうやって生きていくことの、何がいけないというのだろう。悩んで苦しんで、それでもその苦しみをひとつひとつ乗り越えようと、一生懸命時間をかけて考えることの、何がいけないのだろう。

人は時間の無駄だというかもしれない。いつまでもうじうじしてても何も前に進まないよと言うかもしれない。そんなことじゃ成長できないと言うかもしれない。

でも、みんなが口々に言う、「成長」って、いったい、なんだよ。何なんだよ。

今の段階から、いったい、どうなったら、「成長したね」って、認めてもらえるの?

「成長」とか、「成功」とか。

私たちは、曖昧な言葉に、あまりに簡単に、振り回されてはいないか。

成長って何? ときかれて、何人の人が、とっさに答えられるのだろう。何が成長なのかは人によって異なるというのは誰もがわかりきっているはずのことなのに、どうしてみんな平気で、「これじゃ成長できない」とか、「成功する法則」とか、そういう言葉に振り回されるのだろう。

世の中、私たちが思っている以上に、わからないことだらけじゃないか。はっきりしないことだらけじゃないか。明日になったらひっくり返っているかもしれない言葉や概念に、私たちはどれだけとらわれてきただろう。本当はどこにも存在しないはずの「成長」や「成功」や、「シンプル」や「気楽さ」や「前向き」という言葉たちに、どれだけ思い込まされていたのだろう。それが、紛れもない、幸せというやつなのだ、と。

私はもう、決めたのだ。

シンプルで悩みなく、ポジティブに生きる楽な毎日を、もう、諦めたのだ。

だって、無理なんだもん。楽しくないんだもん。悩んでいる方が面白いって、気がついちゃったんだもん。みんなが幸せだよと、ゴリ押ししてくる世界より。

私はこれでいい。将来はまた考えが変わっているかもしれないけれど、いまのところは、もう、それでいい。いろんな煩悩に振り回される自分でいい。

悟りを開くとか達観するとか、いろいろなことが許せるようになるとか、あまり怒らなくなるとか。そうやって穏やかになって、感情をコントロールできるようになって、理性で生きられるようになるにつれ、人はそういう人を「大人だ」と、「できた人間だ」言うけれど、私はとても、「大人」にも「できた人間」にも、なれそうにない。

私の心の中にはいくつも、いくつも煩悩があって、やりたいこともあって、嫌なこともあって、好きも嫌いもちゅうくらいも、嬉しいもむかつくも悲しいも楽しいもめちゃくちゃたくさんあって、毎日、津波みたいに押し寄せる。とてもコントロールできないくらい、いろいろな感情や欲望に振り回される。

でも、そういう自分に、「それでいいよ」と、私は、言ってあげたい。

悩んで、苦しんで、それでもそういう感情を細かく切り刻んで分析するのを楽しいと思う自分を、深く深く掘り下げるのが好きな自分を、「何もおかしくないよ、間違ってないよ」と、言ってあげたい。

自分くらいは、自分だけは、自分のことを認めてあげないと、かわいそうじゃないか。何も、ありのままの自分をすべて、受け入れようと言っているわけじゃない。だって嫌いなところ死ぬほどあるし、それは無理だもん。でも、たくさんのコンプレックスはさておき、感受性の強い部分くらいは、認めてあげたいと思うのだ。誰も「それでいい」「悩んでいいよ」と言ってくれないなら、自分が認めてあげないと、どうも、かわいそうすぎる。寂しがり屋なんだもの、私。

大人は「悩むな」というかもしれない。「人生を無駄にするな」というかもしれない。でも私はそれを無駄だと思わない。意味がないとは思わない。いや、というよりも、意味がなくてもかまわない。何も意味がないとしても、全世界の人がそれを意味がないと言おうとも、私は、私だけは、自分自身の味方でいてあげたい。ま、世界中を敵に回すようなことなんて、ないとは思うけどさ。

それでいいんだ。コンプレックスだらけでいいんだ。煩悩だらけでいいんだ。役に立たないことに、時間をかけたっていいんだ。だって私はそれが、楽しいんだから。そういう生き方が、好きなんだから。

ポジティブシンキングだの、楽に生きるだの、ありのままの自分を全部好きになるだの、鈍感力を身につけるだの、人に差をつける成功者の法則だの、幸せな人の習慣だの、シンプルに生きる、だの。

もう、き き あ き た わ !

もう、知らん。何も知らん。ききあきた。もーおなかいっぱい。いい加減、悩みがちな人間の居場所ができてもいいじゃないの。いや、べつに前向きに意欲的に毎日イキイキと生きている人々を否定するつもりは一切ない。むしろそういう人たちに憧れるし、なれるもんならそういう生き方がしたいと思う。

でも、そろそろ、私が本当に楽しいと思う生き方をしても、いいんじゃないかなあ。

さまざまな常識によって、私が楽しく生きられなくなっているのなら、私は、それをぶち壊してでも、自分らしい生き方を見つけたいんだ。

シンプルに生きるのも、ポジティブに生きるのも、いいと思う。そうやって生きて幸せな人ももちろんいるし、尊敬している。

でも、自分がそういう人たちに合わせて生きる義理もないと、私は思うのだ。自分の生き方は、自分で選んでいい。

こういうことを主張し続けていると、もしかしたら、人は、こう言うかもしれない。

「あいつ、こんなこと考えてたのか」
「自分のことをこうやって書いて、自分に酔ってて気持ち悪いな」
「こんなに性格が悪いだなんて、思わなかった」

そんな風に、私のことを批判する人もいるかもしれない。そう言われて、立ち直れないくらいの傷を、私は負ってしまうかもしれない。自分の考えていることを好き勝手に吐き出す以上、それだけのリスクを、私は背負わなければならないのだ。

「すごいやつなのか、ただの変なやつなのか、わからない」

あのときの、彼のように、そんな風に言う人間も、いるかもしれない。

他人から批判されることを想像すると、とても恐ろしくて、不安な気持ちになる。だって私はひどく、承認欲求が強いから。

でも、それが、なんだと言うのだろう。

悩みがなく、ただ楽に肩の力をぬいて、シンプルに生きていくことほどつまらないことはないと、私は思う。

批判されたら、苦しいだろうと思う。自分を嫌いで、認めてくれない人がいるという事実は、逃げ出したくなるほど、辛いと思う。

でも、そのときはそのときでまた、批判されてどうして苦しいのか、分析すればいい。

「本当にすごいやつ」なのか、「ただの変なやつ」なのか。

もう、そんなこと、どっちでもいい。

ただ面白く生きられるなら、ただの変なやつにでもなんでも、なってやろう。

私は、自分の道を信じることにする。

さあ、シンプルに生きようとする大人たちに、反旗を翻そう。

悩みがなく気楽にシンプルに生きるのが幸せという風潮について川代紗生(かわしろ・さき)
1992年、東京都生まれ。早稲田大学国際教養学部卒。
2014年からWEB天狼院書店で書き始めたブログ「川代ノート」が人気を得る。
「福岡天狼院」店長時代にレシピを考案したカフェメニュー「元彼が好きだったバターチキンカレー」がヒットし、天狼院書店の看板メニューに。
メニュー告知用に書いた記事がバズを起こし、2021年2月、テレビ朝日系『激レアさんを連れてきた。』に取り上げられた。
現在はフリーランスライターとしても活動中。
私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)がデビュー作。