つまり、卑弥呼が立てられたのは189年以降ということになる。
さらに朝鮮の『三国史記』(1145)「新羅本紀」の阿達羅尼師今二十(173)年五月条には、倭の女王卑弥呼が新羅に使いを遣わした、とあります。
これが事実なら、卑弥呼はすでに173年に王になっていたということになりますが、『三国史記』の成立は1145年で、倭に関する古い記事は信用ならぬというのが通説です。一方で、『三国史記』自体、古い史料にもとづいているという説もあり、近年になって日本側でも対応記事が発見されるケースが出ていることから「すべて虚構としてしまうことはできない」(佐伯有清編訳『三国史記倭人伝 他六篇』解説)ともいいます。
中国側の『後漢書』の「倭国伝」によれば、倭は188、9年ころまで大乱が起きていて、卑弥呼が立てられたのはそのあとなので、確かに173年に新羅に使いを送ったということは考えにくいでしょう。
だとしても、189年ころにはすでに適齢期を過ぎていた卑弥呼が立てられていた可能性はあります。
もしもこの時、卑弥呼が19歳~29歳だとすれば、魏に朝貢した238(239)年には70歳~80歳くらい、247年に死んだとするとその時79歳~89歳くらいになります。
あるいは、『三国史記』の記述を信じるとして、173年当時卑弥呼が19歳と考えると、247年には93歳の高齢ということになるのです。
いくら何でもそれはないよ……とお思いでしょうか。
しかし実は、先の『魏志倭人伝』には、卑弥呼の記事に混じって、こんな記述があるのです。
「倭国の人は長生きで、あるいは100歳、あるいは8、90歳である」(“其の人は寿考にして、或いは百年、或いは八、九十年なり”)
当時から100歳まで生きる人はいたようで、古代法の令にも、「80歳になる者と、難病者等には介護役を一人与えよ。90歳には2人。100歳には5人。皆まず子や孫を当てよ。もし子や孫がいなければ近親者を取ることをゆるせ。近親者もいなければ“白丁”(課役を負担する無位の成年男子)を取れ」(「戸令」)とあります。
官僚が辞職をゆるされる年齢は70歳以上という規定もあり(「選叙令」)、本人が望み、事情がゆるせば、70を越えても現役でいられたのです。