多面的視点から社会的責任を浮かび上がらせる
この小説は、入れ子のような「多重構造」に大きな特色がある。最初の語り手は、船で北極へ向かうウォルトンという冒険家で、彼が船上から姉に送った手紙という設定で小説がつづられる。ウォルトンはヴィクターに出会い、彼の話を書き留める。その中には、ヴィクターが対峙した怪物の語りも含まれる。つまり、ウォルトンが書いた手紙の中の、ヴィクターの語りの中の、怪物の語り……と、メタにメタを重ねた三重構造になっているのだ。
複数の語り手が一人称で次々に新たな事実を明かしていく物語を読み進めていると、奥の間へ、奥の間へ、と扉が次々に開かれていくような不思議な感覚にとらわれる。中でも、真に迫った怪物の語りに思わず感情移入してしまう読者が多いはずだ。怪物は、自分を見捨てたヴィクターを責め、人間たちに差別され、社会から疎外されるつらさを切々と訴える。そう、怪物は親にネグレクトされた子どものような存在なのだ。ヴィクターから見た怪物は一方的な悪だが、いざ「怪物の目から見た人間」が語られ始めると、恐ろしいのはむしろ人間ではないか、という疑念が首をもたげ始めるのである。
作者がわざわざこんな複雑な構成にしたのは、「物事を多面的に見よう」という強い意志があってのことだろう。「人間から見た怪物」だけでなく、「第三者から見た怪物」「怪物から見た人間」まで多面的に描くことで、創造主と被造物の非対称な関係、善と悪の境界のあいまいさまで見据えようとしたのではないだろうか。
こうした多面的な視点の獲得は、現代のビジネスパーソンが「企業の社会的責任」を考える上でも非常に重要だ。テクノロジーが高度に進化し、さまざまな製品やサービスに当たり前のようにAIが組み込まれるようになると、それらが思わぬ形で人を傷つけるリスクも増えていく。自動運転車が人をひいたら? 医療AIが誤診したら? チャットボットが人を誹謗中傷したら? 『フランケンシュタイン』には、複雑化する「製造物責任」について考えるための論点が提示されている。
研究開発の在り方についてもそうだ。ヴィクターは作中、終始独り善がりの研究を続け、結果が期待通りでないと分かると、全ての責任を放り出して逃げてしまう。もしこのとき、他者と協力し、多様な意見を取り入れていれば違う結末が待っていたのではないだろうか。