「生きる」とは、生まれたことの
意味や意義を見つけようとすること

――以前、小学生や中学生の頃のお話をお聞きしたことがありましたが(「田原総一朗が徹底的に『一次情報』にこだわるのはなぜか?」「田原総一朗、瀬戸内寂聴さんを偲ぶ『僕たちは戦争を知っている最後の世代』」)、田原さんは高校時代はどのような若者だったのですか?

 高校2年生の時に、先生に「なぜ勉強しないといけないのか?」と聞いたことがあった。(前述の)田原カフェでも話したように、若い頃は、自分が生きている意義は何だろう、生きるとはどういうことなんだろうと、ずっと考えていた。それで、私たちは何のために勉強しているのか? と気になったんだよね。でも、「勉強するなんてことは当たり前だ」「勉強したくないなんてお前は共産党か?」と、最初に聞いた先生にはボロクソに怒られた。次に聞いた先生も同じような反応だった。

 ところが、3人めに聞いた先生が非常に興味を持ってくれて、若い哲学者を紹介してくれた。京都大学の助教授か講師だったかと思うんだけど、その哲学者といろいろと話すことができた。また、僕が育った町、滋賀県の彦根市にあった曹洞宗のお寺へ行って、「生きるとはどういうことか」について、泊まりがけでお坊さんの話を聞いた。

 人間というのは、自分で生まれたいと思って生まれたのではない。気がついたら生まれていた。男性になりたい、女性になりたいと思ってそうなったのでもない。気がついたら男性だったり女性だったりした。生まれることも性別が決まることも、自分の意思とは関係なく、非常に偶然なんだと。そのようにして生まれた人生の意味や意義を見つけようとすることが、生きるということなんだと。このことを、哲学者やお坊さんが教えてくれた。

――高校生の時は、本音で話し合えるような友人はいましたか?

 いなくはなかったけれど、当時は、社会の風潮やタブーも多く、どうしても建前の話になりがちだった。「政府の言っていることは本当に正しいのか?」「政府はアメリカの言いなりだが、アメリカが言っていることはインチキではないのか?」といった本音の話をすると、友人たちを巻き込んでしまうというか、何だか悪い気がして、あまりできなかった。

 僕は本音の話をしたかったので、教師とはよくそういう話をした。当時、僕が通っていた高校に、上田哲さん(1928〜2008年/政治家、ジャーナリスト)が英語講師として勤務していたが、彼はよく話を聞いてくれた。その後も付き合いは続き、彼がその後、政治家になったときは、よく講演会をのぞきに行ったりしたね。

――学校以外では、部活やアルバイトはしていましたか?

 家が貧しかったので、家庭教師と新聞配達のアルバイトをしていた。その給料を家に入れていた。作家になりたいと思って大学は早稲田の文学部に入ろうとしたが、実家に仕送りするために夜間学部(第二文学部)に入学した。JTBの試験を受けて入社し、昼はJTBで働き、夜は大学に通った。

――その後、文学部に入り直したのはなぜでしょうか?

 大学に入って3年がたったころ、当時、一橋大学の学生だった石原慎太郎さんの『太陽の季節』と、東京大学の学生だった大江健三郎さんの『飼育』の2つの本を読んで衝撃を受け、自分にはまったく文才がないと思った。

 そこで挫折して、悩んだ末に、ジャーナリストになろうと考え方を変えた。才能で書くのは無理でも、取材をして一次情報を元にすれば文章を書けると。ジャーナリストになるためにはマスコミに入社しなければいけない。それで、22歳の時に第一文学部の入試を受けて、入り直した。大学へはそこから4年通った。とはいえ、実家への仕送りと学費、生活費を稼がないといけないので、学習塾を経営することにした。学生をアルバイトで雇って、そこそこの規模になった。

田原総一朗田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年、滋賀県生まれ。1960年に早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。1977年フリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』等でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「城戸又一賞」受賞。早稲田大学特命教授を歴任(2017年3月まで)、現在は「大隈塾」塾頭を務める。『朝まで生テレビ!』『激論!クロスファイア』の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。著書に『コミュニケーションは正直が9割』(クロスメディア・パブリッシング)、『自民党政権はいつまで続くのか』(河出書房新社)、『新L型経済 コロナ後の日本を立て直す』(冨山和彦氏との共著、KADOKAWA)など多数。 Photo by Teppei Hori

――学生で学習塾の経営者とはすごいですね。そのまま経営者になるという道は考えなかったのですか?

 やはりジャーナリストになりたかった。多忙だったが、今思えばそれが良かった。貧しかったから、とにかくやらなければいけないという使命感があった。

――大学生の時は、本音で話し合えるような友人はいましたか? 当時は「ぷらんたん」など、喫茶店で議論したりしたのですか?

 忙しいしお金がなかったから、なかなか行けなかった。友だちと喫茶店へ行ったり、お酒を飲みに行ったりする余裕はなかった。そもそもお酒はあまり好きではなかった。酔うと皆、議論が深まらなくなる気がしてね。

 社会人になってからは、喫茶店や飲み屋へたまに行くようになった。学生運動の取材で訪れたり、当時、新宿のゴールデン街によく文化人が集まっていたりしたのでそこへ行ったり。だから公安にマークされていたよ(笑)。自宅でもよく議論を重ねた。猪瀬直樹さんもよく遊びに来てくれた。

 大学の友人は、文学部なのでほとんどがマスコミ志望だった。志望通りに就職できた人もいれば、そうでない人もいる。だから社会人になってからの付き合いというのは、どうしても難しさがあるよね。一方で、高校の時の友人たちとは今でもよく会っています。卒業から今に至るまでずっと関係は続いていて、東京に住んでいる人たちとは、1カ月に1回ぐらいは会っているんじゃないかな。仕事も何も関係なしに気兼ねなく話せる。

――「田原カフェ」が始まるきっかけは何だったんでしょうか?

 ぷらんたんのクラウドファンディングの呼びかけ人として誘われ、ぷらんたんを訪れたとき、田中君(田原カフェを主催する1人で、モデレーター役も務める田中渉悟氏)たちとその場で2時間ぐらい、政治や哲学などいろいろな議論をした。もともとぷらんたんは、こうやって学生などお客さんたちがよく議論をしていたらしい。「そういう場をつくりたい」「これおもしろいので、今後もやってみよう」ということになり、始まった。若い人たちの考えを聞き、議論することは実に楽しいことだ。声をかけてくれてとてもうれしく思っている。