コミュニティは「正しさ」の共有で成り立っている

 私が学生だった頃の一時期、あるコミュニティに通っていたことがある。それは学生も社会人も入り混じった、中規模なサークルのようなものだった。「社会課題についてみんなで一緒に考え、解決していこう」といった趣旨のNPO団体だった。そこには緩やかな閉鎖感のようなものが漂っていて、口には出さなくとも、誰もが「ここに所属してる人たち、面白い」と心から信じているのだろうことがなんとなく伝わってきた。

 そのサークルに行き始めたばかりの私に、重鎮らしき人たちが言ってきた言葉がある。

「最初に会ったときにね、ピンときたの。あなたはきっと、わかる人だと思ったんだ」と。

 言われたその瞬間には心が踊った。私の声に耳を傾けてくれる人がいるのだと思って、嬉しかった。

 けれど、その場所に漂う妙な優越感の匂いに、私は徐々にむせるような心地悪さを抱くようになった。結局その後、そこへ通うのをやめてしまった。

 コミュニティとは、「正しさ」の共有で成り立っているのだと思う。「あなたはきっと、わかる人だと思った」という言葉には、「私たちが正しいという理由付けを、あなたも一緒にしてくれるよね?」という、無言の圧力みたいなものがたしかに込められていた。「わかる人」「わからない人」という言葉で区別することで、自分が今所属している場所、信じている価値観が「正しい」と裏付けてくれる証明書を必死でかき集めているようにも見えた。

 きっと誰しも、「正しさ」を自分で定義するのが怖くて怖くてたまらないんだろう。私自身を振り返ってみても、「わかる人」という言葉で牽制し合う彼らの必死な様子を見ていても、行動の意図はきっと一緒だった。多くの人は、生まれてから親のもとで育ち、親の「正しさ」を刷り込まれながら大人になってゆく。その後成長とともに、自分の中にある親の価値観を破壊し、新たな自分だけの「正しさ」を手に入れる人もいれば、親から受け継いだ「正しさ」を持ったまま一生を終える人もいる。

 フロイトは、人間には「防衛機制」という心理メカニズムが働くことがあるという。現実と受け入れられないほどの苦痛を感じたり、潜在意識で危険を察知したりすると、不安を軽減するためにさまざまな形で「防衛」しようとするのだそうだ。

 そのうちの一つに、「合理化」という防衛機制がある。思うようにいかなかった出来事に対して、「あの辛い出来事が起きたのは、こういう理由があるのだ」というように、理論化して自分を納得させようとするやり方だ。たぶん私は、辛いことがあったときすべてを理論化させて、辻褄が合う理屈を見つけたときにそれを「悟り」と呼び、そうして苦しみを紛らわすのが癖になっていたのだろうと思う。

「正しさの浮き輪」を手放す覚悟

 私は社会に怯えていた。自分を傷つける人間が潜んでいるんじゃないかと。自分のことを批判してくる人間がいるんじゃないかと。私のことを認めてくれない、わかってくれない、その考えいいねって言ってくれない。そんな人ばかりの世界で生きていたくないと思った。「私のことをわかる人」を求めていたのだ。そう、まるで母親のように大きな愛で、私を包み込んでくれる人ばかりがいる世界で生きていたかった。

「私は悟った」「開眼した」と華やかでキラキラした言葉をあえて使い、必死で自分を「特別な人間」だと思い込もうとしていた私の姿は、さぞ滑稽だっただろう。今振り返ってみても、生きづらさの海でもがくにしても、そんな汚いもがき方しなくたっていいだろう、もっと他のもがき方があるだろうがと思わずにいられない。

 けれど、そんなかつての私のことを、そして今現在、同じように自分を守ろうとしている人たちのことを、私は責めることはできない。世界にはどうにもならない息苦しさ、理不尽、精神的貧困がたしかに存在し、自我を保ちながらその脅威と闘うのは容易なことではないからだ。繊細な人ほど「社会から排除されるかもしれない」という危険信号を先取りして察知してしまう。心の崩壊を守るためには、自分の中の何かをぐにゃりと歪めなければならないこともあるだろう。

 ただ、自分の弱さに自覚的でい続けたい、と私は思う。人間は弱さや息苦しさを抱えているときほど、どうしても「正しさ」を定義するのがうまい人に吸い寄せられてしまうからだ。仮初めの正しさだったとしても、今傷んでいる心を「とりあえず」癒すために、それらしい理屈で納得させてくれる人や、思想や、コミュニティに依存しやすくなる。

 自分の代わりに「あなたは悪くない」と言ってくれる人や理論を求めてしまう。そんな時期はたしかにある。でもそれが癖になると、ずっとずっと、「許してくれる誰か」がいないと息ができない状態が続く。水面から顔を出すために、許しの言葉を与えてくれる理論やカリスマや占いや場所を求め、身体が沈んできたらまた他に「正しさの浮き輪」を探す。それが自分を救ってくれることはたしかにあるけれど結局対症療法でしかなく、しんどさの根本解決にはならなかったと、私は気づいた。

「正しさの浮き輪」を手放す覚悟が必要だ。自分で泳ぐ覚悟が必要だ。泳げない自分を真正面から受け入れ、一つ一つの苦しさをなかったことにするのではなく、共存する覚悟が必要だ。

 自分で自分を許せるようになるまでには、時間がかかるかもしれない。ときにやはり、「許してくれる誰か」を求めてしまうこともあるかもしれない。けれどどこかで決別する勇気を、えいやっと1歩踏み出す勇気を持たなければ、この海からは永遠に抜け出せない。

 溺れそうな自分がいたら、自分で助けてあげよう。自分が自分の浮き輪になろう。はじめはうまくいかなくとも、続けていればきっと、ちょっとずつ呼吸ができるようになるはずだ。

 大丈夫。

 私はそんな息苦しい自分と別れる決断をした自分を、「わかる人」「わからない人」で区別していた頃の自分より、好きだと思う。ずっとずっと好きだと思う。