こうした考えの源には、どうすれば選手のパフォーマンスが向上するのか、という観点があります。それだけではなく、「観る・支える・育てる」などのサポート側が、いかに楽しめるかといった視点も重要です。これまでのやり方を一度リセットして考え直す必要があるのではないでしょうか。

なぜ「国体」から「国スポ」へ?佐賀県が挑戦する前例なきスポーツ大会<br />

 今、歴史ある日本のスポーツ大会でも、様々な見直しが行われています。高校野球で雨天中止となった場合、翌日に0-0から再試合するのではなく、中断された場面から再開する継続試合となりましたよね。前例踏襲ではなく、選手や傍でサポートする人たちの「こうなれば良いな」が、実現される土壌ができつつあります。

「勝利至上主義」よりも
大切な「負けること」

 スポーツをするうえで、勝ち負けは必要だと思います。双方が勝利を目指すことによって、筋書きのないドラマが生まれ、観ている私たちの胸を打つわけですから。特にトーナメント戦は、優勝者以外のすべてが敗者となる構造です。ただ、そこで負けたことは人生における教訓になって、また次の挑戦へとつながります。そうした経験がスポーツに携わる方々の「生きる力」になるんです。

なぜ「国体」から「国スポ」へ?佐賀県が挑戦する前例なきスポーツ大会<br />

 その意味で、やはり勝利至上主義になってはいけないと思います。勝つことが全てになると、指導者から敗戦を厳しく指摘され、負けたことに価値を見出せなくなってしまう。勝利だけが最上位だとすると、本来スポーツが持つ価値を享受できないことになります。

 最近、少年野球をはじめ、様々なスポーツの現場に行くと、「子どもたちが小さくまとまってしまう」という話をよく聞きます。ミスしない、負けないといった価値観が浸透しているからでしょう。県内には様々なスポーツチームがありますが、どこも勝つことが優先されつつあるように感じています。勝つことが全てという雰囲気のままでは、負けて得られる大切な経験を放棄することになってしまいます。

 2年前、コロナの影響で夏の甲子園とインターハイが中止になり、県予選も行われませんでした。高校生が目標にしてきた大会が実施されない。選手たちの長い人生を考えた時、これまで努力してきた彼らが、最後にどこかで気持ちに区切りをつけ、負けることも含めた様々な経験をしないと、本当に大切なものを失うのではと危惧しました。