ピンチはなぜ訪れるのでしょう。自分の思い通りのことが続くと、心が傲慢(ごうまん)になるから、というのも理由の一つでしょう。非常時にこそ、自分自身のあり方を見直したいものです。(解説/僧侶 江田智昭)
ピンチは欲望のデトックスのチャンスに
今回の掲示板は、「チャンスはピンチの顔してやってくる」。これに似た言葉は、世界中に存在します。ことわざの「人間万事塞翁(さいおう)が馬」、アインシュタインの残した言葉「チャンスは苦境の最中にある」などがそれに当たります。
好んでピンチに陥りたい人はおそらくいないでしょう。しかし、どんな人間も人生の中で必ずピンチに陥ります。ピンチは大なり小なり、さまざまな状況が考えられますが、簡潔に表現するならば、「ピンチとは自分の思い通りにならない状況」だと言えます。
お釈迦さまがおっしゃるように、人生は「一切皆苦(思いどおりにならない)」なので、ピンチが発生することは、当然といえば当然です。では、なぜ自分の思い通りにならない状況であるピンチがチャンスへとつながるのでしょうか?
これに対する答えはいくつもあるでしょう。その一つとして、ピンチに陥ると、「自分がこれまでやってきたことや自分のあり方が果たして正しかったのか?」を見つめ直す契機となるから、が挙げられそうです。
物事が自分の思い通りになっているときは、自分のあり方を見つめ直すことはほとんどありませんが、ピンチに直面すると、いままでのあり方を嫌でも振り返らざるを得なくなります。そして、「自分の『思い通り』とは、そもそもいったい何だったのか?」を考える機会にもなるのです。
「思い通り(=欲望)」は非常に厄介なものです。たいてい無意識のうちに、心の中で勝手に肥大化します。「思い通り」が大きくなることによって、さまざまな事柄をありがたいと受け取る感覚がなくなり、気付かぬうちに傲慢な性格になってしまうのです。
親鸞聖人は、このような心の様子を「邪見驕慢(じゃけんきょうまん)」と呼んでいます。この心のあり方がピンチを引き起こす直接的な原因になることもたびたびありますので、常に己の心を省みることが大切です。また、欲望を完全になくすことは不可能ですが、生きていくためには、「欲望のデトックス」のようなことがたびたび必要になります。
道元禅師が著された『正法眼蔵』の中に、「放てば手に満てり」という言葉が出てきます。これは、「古いモノを手放したら、新しいモノが手に入る」という意味ではありません。「欲望や執着を手放せば、大切なモノに気付き、それに満たされる」という意味が含まれているのです。
平常時では、大事にしていたものを手放すことはなかなかありません。ピンチのときにこそ、それらを手放すチャンスが訪れます。ピンチという非常時は、自身の欲望を省みて、何らかの執着や欲を捨て去る良い機会となるのです。
ですから、ピンチを迎えたときは、「自分が強く執着しているものが何なのか?」をしっかり見つめてみましょう。自分がしがみ付いていたものを手放すことは恐怖を伴いますが、執着から離れてみると、新たな気付きが生まれ、それがある種のチャンスへとつながっていくのではないでしょうか。