自然界には「自然法則」があり、
人間界には「道徳法則」がある
ところで、カントの主著『純粋理性批判』ですが、カントはまず、二律背反(アンチノミー)の問題を取り上げます。
宇宙に始まりがあるとすると、それ以前の問題が解けない。
始まりがないとすると、現在の時間が完結していることが説明できない。
このような形而上学的問題に対して理性で決着をつけようとすれば、二律背反に陥る。
カントは、形而上学的な問題は理性が扱うべき問題ではなく信仰の問題だと指摘したのです(理性の限界)。
また、純粋な理性とは、認識する能力を指しています。
そして批判とは、純粋理性を批判しようという意味ではありません。
ドイツ語の Kritik (批判)には、「区別する、識別する」といった意味があります。
「純粋理性批判」の「批判」に、カントは認識について議論してみんなで考えを深めようという意味を持たせました。
認識論を批判するためにつけたタイトルではありません。
カントは『純粋理性批判』を書くときに、感性と悟性という認識の枠組みを置きました。
どんなことを考えるにしても、何かを無条件に前提として置かないと議論は進められません。
彼は認識について考えるとき、イングランドの経験論における白紙の人間でもなく、デカルトの生得観念でもなく、認識の枠組みを前提として置きました。
カントは『実践理性批判』という本も書いているのですが、この場合にはア・プリオリに自然法則を置きました。
自然法則とは地球が太陽のまわりを回っているというような、動かざる法則です。
次にカントは自然界に自然法則があるのだから、人間界にも同じような法則が存在しても不思議ではないと考えます。
そしてこれもア・プリオリに人間界の法則を置きました。
これに道徳法則と名前をつけます。
たとえば困っている人を助けるという行為は、地球が回っているのと同じような当たり前の人間界の法則なのだと述べます。
それにはなんら説明をつけ加えません。
万有引力でリンゴが落ちるようなものだ、というわけです。
「それはおかしいぜ」と思っても、「人間界には道徳法則がない」ことを論証してくださいと言われたら、これはまたとんでもない難問です。
「自然界には自然法則があり、人間界には道徳法則がある」と、言ってしまったものの勝ちなんですね。
いわゆる挙証責任の転換の問題(立証責任を負ったほうが裁判では不利になるので、挙証責任を転換させることが裁判の勝ち負けに通じる)です。
認識の枠によって事物を認識するのは頭脳の仕事です。
ですから純粋理性の役割です。
それに対して道徳法則は、人の行為すなわち実践に関することなので、カントはこれを「実践理性」と名づけました。
純粋理性は認識の枠によって認識という仕事をする、実践理性は道徳法則に従って人間を実行に移させる。
この区別は少しややこしいのですが、覚えておいてください。