もう少し回が進むと出てくると思われるのは、東三河や遠江出身の井伊、榊原、鳥居、戸田、奥平、水野などだ。それ以降でも、駿府時代や関東に移ってからの今川、武田、北条旧臣、さらには、江戸時代に旗本などから昇格したりしたのも譜代だ。
当然、三河出身の譜代大名の重臣はほとんど三河系で、中堅以下には、武田や北条旧臣の割合が増えてくる。遠江の井伊家の彦根藩士の場合は、遠江や三河出身者が上層には多いが、武田旧臣の山県軍団を預けられた経緯があって、数でいうと、山梨県出身が最も多い。
会津藩では、初代藩主だった保科正之が養子に入った保科家のルーツである信濃出身者が主流で、ほかの譜代代用から転籍した三河出身者などが少し加わるが、地元出身者は皆無に近い。いわゆる頑固な会津魂というのは、信州人気質そのものである一方、土着の会津人はおおらかな気質だ。会津藩の武士は、会津地方の民謡「会津磐梯山」に出てくる朝寝・朝酒好きの小原庄助さんのような人物とは全く似ていない。
また、織田・豊臣系の加賀、広島、岡山、鳥取、徳島、高知あたりは、尾張、ついでは美濃、近江出身者が主であって、全般的に商人的な気質が強い。
いずれにしても、江戸時代の平均的な武士の気風は非常に三河的な横並び年功序列好きだし、それは、日本の大企業のサラリーマンにも良くも悪くも引き継がれている。
そうした企業は、高度成長期のように巡航速度の成長が続いているときは強いが、成長が止まると後ろ向きになり衰退しがちだ。江戸時代後期に、薩長土肥など西南雄藩に比べて幕府自身や譜代大名が消極的になって、天下を失ったのはそのせいだったといえるだろう。
(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)