浅木は、すぐに凍結していた新骨格の開発再開を指示した。そして数日後、八郷社長のF1撤退宣言の当日、改めてエンジニアたちにこう宣言した。

「残り1年は、われわれ技術者の意地を見せる1年になる。われわれが世界一のパワーユニットサプライヤーであることを証明して終わろう」

 浅木は、この選択にリスクがあることを知っていた。

「新骨格の投入を最終決定した時期が、かなり遅かったんです。そのなかで、松竹梅で言えば松級の大きな変更をするわけですから、リスクは大きかった。でも、リスクを背負ってでもやらなければならないことはありますよね」

 リスクを背負う決意をしたのは、HRD Sakuraのエンジニアを信頼していたからだ。

書影『ホンダF1 復活した最速のDNA』『ホンダF1 復活した最速のDNA』(幻冬舎)
NHK取材班 著

「彼らは、リスクがあっても、なんとしてもやり切りたいという気持ちが強いんです。問題は絶対に起こるけれど、それに向き合って1年戦う。そういう決意です」

 こうした困難な状況に立ち向かう大切さをホンダに浸透させたのは、創業者の本田宗一郎である。

「私は、人がやらないことをやるのが発明、創意工夫であるという考え方を持っている。いろいろ困難があると思う。困難な問題だから失敗がある。失敗があるから、われわれはそれを成し遂げることによって発明が成り立つのだ」

 本田宗一郎のDNAを持ったエンジニアたちは、こうして新骨格開発に挑んだ。