書影『誰だって芸術家』『誰だって芸術家』(SB新書)
岡本太郎 著

 それよりもスタンダール、ヴァレリー、ドストエフスキー、サルトルでも、フォークナーでもかまわない。多少のインテリなら、若い日、むしろそういうものに夢中になり、自分の魂がひらかれ、性格が形づくられ、創作意欲が生まれる、そういう経験を持たなかった者はいないだろう。音楽でも、ベートーヴェンやショパンよりも第何世常磐津文字兵衛(ときわづもじべえ)のほうがピンとくるなんていう若者は珍しい。

 してみると、どっちがわれわれの伝統なんだろう。

 むしろわれわれは、近代文化を生んだ西欧によって育てられている。

 洋服を着て、電車に乗って暮らしている事実にしても、ものを喋るにしても、その論理のたて方、もののつかまえ方、すべてがそうだ。こどもの時から教育され身にそなわった西欧近代的なシステムによって、われわれは判断し、生活し、世界観を組み立てている。

 私は別段それが正しいとか、また逆にゆがんでいるとか言っているのではない。ただそれが事実だということ。つまりとかく大層らしく言われるほど、われわれは純血な伝統を負うてはいないということを指摘しているのだ。

 もし伝統というものが現在に生き、価値づけられるものだとするならば、ここでわれわれにとっての伝統の問題はすっかり様相を変えてしまうだろう。

 それはなにも日本の過去にあったものだけにはかかわらない、と考えたほうが現実的ではないか。なにもケチケチ狭く自分の受けつぐべき遺産を限定する必要はない。

 どうして日本の伝統というと、奈良の仏像だとか、茶の湯、能、源氏物語というような、もう現実的には効力を失っている、今日の生活とは無関係なようなものばかりを考えなければならないのだろう。そういう狭い意味の日本の過去だけがわれわれの伝統じゃないのだ。

 ギリシャだろうがゴシックだろうが、またマヤでもアフリカでも、もちろん日本でも、世界中、人類文化の優れた遺産のすべて、そのなかのどれをとってどれをとらないか、それは自由だ。

 われわれが見聞きし、存在を知り得、なんらかの形で感動を覚え、刺激を与えられ、新しい自分を形成した、自分にとっての現実の根、そういうものこそ正しい伝統といえるだろう。

 だから無限に幅ひろい過去がすべてわれわれの伝統だと考えるべきであって、日本の古いものはわれわれにとってむしろ遠いとさえいえるのだ。

 自分の姿を鏡で見るときのように、如実に自分の弱みを見せつけられる。ふとそんな気分がして、われわれはかえっていわゆる日本的なものを逆に嫌悪し、おしのけてさえいる。この事実を自他にごまかしてはならない。