アーノルドらミッチェル・スクールのメンバーは、こうした思想に熱心に耳を傾けていたのだ。

「ミッチェルたちは、一般市民の戦争への意欲は脆いので、それを打ち砕くのに多くの爆弾は必要なく、時間もかからないと信じていました。ですから、すぐに市民は平和を求め、政府は要求に応じるだろうと考えていたのです。まさにそこから一般市民を攻撃目標とする航空戦略が生まれたのです」(アメリカ国立戦争大学のマーク・クロッドフェルター教授、航空戦略・空軍史)

焼夷弾による一般市民爆撃戦略は
東京大空襲の20年前から存在

 非人道的なミッチェルの戦略思想は、これにとどまらなかった。さらに取材を進めると、ミッチェルは、一般市民を恐怖に陥れる具体的な方法にまで言及するようになっていた。3年後の1922年に記されたレポートには、次のような一文が見つかった。

「敵国に暮らす市民たちに恐怖を与えることは、戦争をやめるように彼らを導くために必要である。毒ガスはその土地に生きられなくするために使われ、焼夷弾は火災を発生させるために利用される。今はまだ幼児期にある爆弾だが、今後10年以内に恐ろしい武器へと大きな発展を遂げるだろう」

 このレポートの中で、ミッチェルは焼夷弾の有用性に言及していた。東京大空襲の20年以上も前の時点で、こうした航空戦略は想定されていたのだ。