当然、ミッチェルの航空戦略は、航空隊戦術学校に引き継がれていく。戦術学校の教科書の中に、その証拠が残っている。第二次世界大戦が始まった1939年、戦術学校の講義で使われたテキストには、次のような記述がある。
日本の大都市が
燃えやすいと知っていた
「日本の大都市の大部分は、脆く燃えやすい材質で作られている。1923年の関東大震災のときに火災によって甚大な被害がもたらされたことからも見て取れるように、日本の家屋は焼夷弾爆撃が有効だと考えられる。民間人への直接攻撃は、もしかすると人々の士気を挫くことに非常に効果的かもしれないが、人道的な配慮のために空爆の目標としては排除される。しかしながら、民間人への直接攻撃は、報復としてはあり得る手段であると頭に入れておくべきだ。日本がこの攻撃手法を採用しないという保証はどこにもないのである」
航空軍は、関東大震災で起きた惨事を把握しており、日本が焼夷弾爆撃に対して脆弱であることを知っていた。水面下で、新型の焼夷弾の開発も進めていた。ただ、一般市民を攻撃対象として考える思想は、長く航空戦略の表舞台から姿を消していた。なぜなら、大衆に受け入れられないことを、航空軍のメンバーたちが理解していたからだ。
ルーズベルトが人道主義を掲げる中、一般市民を恐怖に陥れるという発想は、あまりに過激だった。独立を目指している航空軍にとって、アメリカ国民の評価は非常に重要であった。反感をもたれないように配慮される中で、道義的な問題を抱える戦術は、表向きは排除されていったのだ。
だが、追い求めてきた精密爆撃で成果を上げることができなくなると、その代替案となる戦略は、焼夷弾による無差別爆撃しか残されていなかった。アーノルドにとって、焼夷弾爆撃は、プランBとして常に頭の片隅に置かれていた最後の手段だった。
好都合だったのは、日本が無差別爆撃を行い、国際的な非難を浴びていたことだ。1938年から5年半にわたって行われた中国・重慶に対する爆撃。焼夷弾も使いながら、200回以上空爆が繰り返され、1万人以上が犠牲となっていた。これは、都市に継続的な無差別爆撃を行った史上初めての例だった。
重慶爆撃の惨状がアメリカ国内にも伝えられたことで、日本への空爆は当然だという空気が醸成されていった。先にルールを破ったのは、日本である。道義的なハードルが大きく下がったことで、悪魔の戦略が頭をもたげてきたのだった。