「考えろ」と言わずに考えさせるには?

 閑話休題。禅問答にもどろう。
 禅の道場では、若い僧侶に「よく考えてから口をひらけ」などとはいわない。下手に考えたりすると、なんにも問えなくなってしまう。問いたければ問えばよい。ただし、ひとりの主人公として必死に問うてこい、と老師はうながす。

 鼻息も荒く問いかけたとき、この僧侶は、ひとりのまごうかたなき主人公として問うていた。玄沙和尚、わが問いに答えよ、と。
 ところが威勢よく問うたのはよいが、いざ玄沙に「そなたが主人で、わしは客人だ」と答えられると、はじめの意気込みはどこへやら、「どうしてそうなるのですか」と、いきなりへっぴり腰になる。

 おいおい、そなたは一丁前の主人公として、わしに問うてきたんじゃないのか? 主人として問いかけておきながら、客人の答えを受けとめきれんとは、なんちゅう情けないやつだ。

気をつけるべきこと

 商売柄、学生からちょくちょく人生相談を受ける。禅問答における老師よろしく、ぼくは偉そうにアドバイスをする。
 まずは学生の話にじっくり耳をかたむける。そして学生のありかたを丸ごと受けいれる。「そうだったんだね」と。その受けいれたものを前提として、そこからの可能性としての道筋を示してやる。学生が「そうか、そういう可能性もあるのか」とおもってくれれば、教師の役割はおわり。あとは学生がみずから考えはじめる。

 留意すべきなのは、むやみに共感しちゃいけないということ。若者はしばしば自分を正当化したがる。「キミはわるくないよ」といってほしがる。教師のなすべきことは、しっかり話をきいてやり、学生が自分で考えられるようにしてやることだけである。

山田史生(やまだ・ふみお)

中国思想研究者/弘前大学教育学部教授

1959年、福井県生まれ。東北大学文学部卒業。同大学大学院修了。博士(文学)。専門は中国古典の思想、哲学。趣味は囲碁。特技は尺八。妻がひとり。娘がひとり。
著書に『日曜日に読む「荘子」』『下から目線で読む「孫子」』(以上、ちくま新書)、『受験生のための一夜漬け漢文教室』(ちくまプリマー新書)、『門無き門より入れ 精読「無門関」』(大蔵出版)、『中国古典「名言 200」』(三笠書房)、『脱世間のすすめ 漢文に学ぶもう少し楽に生きるヒント』(祥伝社)、『もしも老子に出会ったら』『絶望しそうになったら道元を読め!』『はじめての「禅問答」』(以上、光文社新書)、『全訳論語』『禅問答100撰』(以上、東京堂出版)、『龐居士の語録 さあこい!禅問答』(東方書店)など。