「禅問答にわかりやすい答えはない。だからおもしろい」。そう語るのは、弘前大学教育学部教授の山田史生氏だ。いまやグローバルなものとなった禅のもつ魅力を、もっとも見事にあらわした大古典、『臨済録』をわかりやすく解説した『クセになる禅問答』が3月7日に刊行される。この本は「答えのない」禅問答によって、頭で考えるだけでは手に入らない、飛躍的な発想力を磨けるこれまでにない一冊になっている。今回は、本書の刊行にあたり、著者に「理不尽な上司との接し方に効く禅問答」について教えてもらった。

クセになる禅問答Photo: Adobe Stock

毒蛇に注意しろ(『玄沙広録』より)

僧が雪峰山からやってくる。
玄沙(げんしゃ)が問う「雪峰和尚はちかごろどんな説法をしている」
「雪峰山にはおそろしい毒蛇がおるから、おまえら注意しろよ、と雪峰和尚はいっております」
「だれかわかったやつはおったか」
「浙江の慧稜(えりょう)が、今日は法堂のなかで大勢のものが咬まれて命を落とした、と答えました」
「それは慧稜であってはじめて答えられたことだ。もっとも、わしならそんなふうには答えんがな」
「和尚ならどう答えるのですか」
「雪峰山をもちだしてなんになる」
「毒蛇とはなんでしょうか」
「さっきいったろ、雪峰山をもちだしてなんになる、と」
「雪峰山には毒蛇がいるというのは、どういう意味でしょうか」
「ズバリ、自分のことなのに、そなた自身がわからんとは」
「わかりません」
「わしにもわからん」

毒蛇の意味するもの

 雪峰は「雪峰山にはおそろしい毒蛇がいる。咬まれないように注意しろ」という。なにに用心しろといっているのだろう?
 慧稜は「今日も今日とて大勢のものが咬まれて命を落としました」という。どこのだれが命を落としたといっているのだろう?
 今日もすでに大勢のものが苦汁をなめました、と慧稜はいったそうだ。この答えぶりには、どうも「こびる」「へつらう」「おもねる」といった追従の気配をおぼえる。雪峰の顔色をうかがいながら、ゴマをすっているような感じだ。

 玄沙はいう。雪峰山なんかもちだしてなんになる、と。肝心なのは、雪峰和尚でもなければ、雪峰山にいる毒蛇でもない。そこで修行している自分自身だ。
 いったい雪峰山にいる毒蛇とはなにか。
 それは現に修行にいそしんでいる自分そのものだ。自分のほかに凄い何者かがいて、そいつに咬まれるわけじゃない。