アジア展開する日本企業の働き方は、かつての日本軍そっくり

「考えすぎだろ」と冷笑する人も多いだろうが、歴史に学べばその可能性はかなり高い。実は今、アジアで日本企業が歩んでいる道というのは、日本軍が歩んできた道と丸かぶりだからだ。

 日本企業が現地採用の人に「ホウレンソウ」という日本式の働き方を押し付けてきたことで、反感を抱かれているのとまったく同じで、日本軍もアジアのさまざまな場所に進出をしたが、現地の人々の自主性に任せなかったことで、かなり反感を抱かれた。

 当時、現地の人を「土人」と呼び、日本軍は完全に下に見ていた。「どうせお前らは何もわからないんだから日本人のやり方を見習え」と言わんばかりに、さまざまな「日本式」を押し付けたのである。

 その代表が「日本語」を用いて、日本人として文化や歴史を学ばせるといういわゆる「皇民化」だ。愛国心あふれる人たちは、これはそれぞれの国の独立や発展に役立ったと主張するが、これは結果論というか後付けの解釈で、やはり当時は「ふざけんなよ」と思う現地の人もたくさんいた。

 陸上自衛隊幹部学校研究課研究員の芳賀美智雄氏の『インドネシアにおける日本軍政の功罪』でもこのように総括されている。

<社会教育施策においても、オランダ植民地時代の二重教育制度を改めることにより初等教育の水準を向上させるとともに、共通語としてのインドネシア語の整備・普及によりインドネシア人の民族意識の高揚を助長した。しかし、学校等での日本語教育、朝礼や宮城遥拝、日本時間の採用などインドネシア人の慣習等を無視した急激な日本化の強要は、日本(軍)に対する反発を招いた>

 その「反発」が1944年2月に農民たちが日本軍に蜂起したタシクマラヤ事件などにつながったというわけである。

 このような「日本式の強要」への反発が生まれたのは、インドネシアだけではない。フィリピンでも日本語教育が行われ、日本から多くの教師が派遣されたが、戦局の悪化に伴い、フィリピン人たちの中で「なんでこんな日本式を強要されなきゃいけないんだよ」という不満がムクムクと膨らむ。

 木村昭氏の『占領地日本語教育はなぜ「正当化」されたのか ―― 派遣教員が記憶するフィリピン統治 ――』を引用させていただこう。

<戦局の悪化とともに、現地人たちは日本語への学習意欲を喪失したと想定できる。水野輝義の日記にある、社会人向けの授業で「受講者欠席多く困った」という1944年4月21日の記述や、「女学校授業。雰囲気悪い。……この学校は監視の要あり」という8月3日の記述、「リパ女学校各教室を廻る。生徒の態度やや冷淡。日本に対する抵抗か」という8月24日の記述、これらはその証左とみなせよう>

 日本に対して不満を抱いていそうなフィリピン人は、憲兵隊から激しい締め付けにあうので、不満が激しい怒りや憎悪になっていく。

 戦後、フィリピンで日本軍の残虐な行為を告発する現地の人が相次いだのは、こういう日本式を強要した恨みもあるのだ。