世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本連載では、本書の内容から「名著の読み解き方」をお伝えしていく。

読破できない難解な本がわかる本Photo: Adobe Stock

うまくやろうと意識しすぎると失敗する?

 老子は儒家の説く人倫の道を不自然な作為であると考えました。

 人間の決めたルールではなく、宇宙の原理としての「道(タオ)」に従うべきだと考えたのです。

 儒家の主張する仁義は、世の中が乱れているからもてはやされるだけだとします(「大道廃(すた)れて仁義あり」『老子』)。

 老子の説く道(タオ)とは、儒家の説く「人の道」とは意味が違います。

 儒家の「道」が現実的な「生き方」を意味しているのに対して、老子の「道」は万物を生み出す原理のことです。

「道」という宇宙の原理については語ることもできなければ、具体的に名づけることもできないので、「道」と名づけるほかありません。

 老子によると、「道」は完全な存在ですから、万物もまた完全です。「道」が完全なのですから、私たちも「無為自然(むいしぜん)」に生きることが理想とされます。

『老子』第八章には、「最上の善とは水のようなものだ。水のよさは、あらゆる生物に恵みを施し、しかもそれ自身は争わず、それでいて、すべての人がさげすむ場所に満足している。このことが水を『道』にあれほど近いものとしている」とあります。

 常に身を低くして、あえて争わないという「柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)」の態度が理想とされたのでした。

 この道に従って、「無為自然」に生きれば、すべてが順調にいくのです。

 もともと世界は完全なのに、人間があれこれよけいなことをするから、自然のバランスが崩れてしまうという教訓です。

気にしていることは誤差のように小さい

『老子』と並ぶ道家の書が『荘子』です。

 荘子は老子の思想を発展させて「万物斉同(ばんぶつせいどう)」を唱えました。この世界は対立、差別のない一つのあり方をしているという考えです。

 たとえば、自分のたっている場所を「ここ」と指さして、その場所から離れてみると、さっきまで「ここ」といっていた場所は「そこ」になっています。

 有限な世界では、このようにすべてが相対的であり、人間が人為的に区別しているだけのものにすぎません。

「世の人は、もともと一つであるはずのものを可と不可に分け、可である物を可とし、不可であるものを不可としている。だが、それはちょうど道路が人の通行によってできあがるように、世間の人々がそういっているからという理由で、習慣的にそのやり方を認めているにすぎない」(『荘子』斉物論篇)

 私たちの日常の考え方は、単なるこざかしい知恵に過ぎず、ちっぽけであるというのです。

 宇宙レベルで考えれば、もともと大きいも小さいも人間が勝手にきめたもので、それは誤差といえるでしょう。

 小さなエゴを捨て、宇宙(道=タオ)に思いをよせて、自然のまま、ありのままに振る舞えばよいわけです。

 荘子は宇宙の流れに無為自然として同調する姿を「逍遙遊(しょうようゆう)」と呼び、そのような境地に到達した人が「真人(しんじん)」であるとします。

 さらにこの世は夢のようだと説きます。「夢の中で酒を飲んで楽しんでいた者が、朝になって悲しい現実に泣き出すことがある。反対に夢の中で泣いていたものが、朝になるとけろりとして猟に出かけることがある。夢と現実はこのようにちがったものだ」。(斉物(せいぶつ)論篇 第二章)

 人間の物差しでつくりあげた相対的な価値を初期化して、世界をありのままにみれば、自分がちっぽけであることがわかりますし、小さなことが気にならなくなるでしょう。

このとき人は混沌(こんとん)たる世界の中で自由に漂う仙人のような存在になれるのです。

人生で役に立つこと
世界はただ自然にあるだけ。自分のエゴを出すと、自然本来の力が阻害され、真のパフォーマンスが発揮できなくなる。ありのままに自然の流れにそって生きることで肩の力がぬけてかえってなんでもうまくいく。