不健康ビジネスのマーケティングに踊らされ「選択させられている」場合も
――「この現状を何とか変えたい」という林さんの思いというか執念が、この本から溢れて出ていると感じます。
林:そうですか(笑)。思いを本に込めた甲斐があります。ニューヨーク時代に感じたのが、不健康を作り出すような産業のビジネスのうまさやこういった産業のグローバル規模での影響力の大きさでした。「仕事や収入などの社会経済的な状況が悪い人ほど影響を受けやすい」と考えられていて、こういったビジネスのターゲットはどんどんそういったグループを対象にしつつあります。
そういうビジネスの構図に問題意識を持ったのも、この本を書こうと思ったきっかけの一つです。人は、自分の意志で何かを選んでいると思ってしまいますが、目の前に置かれている選択肢は、我々が気づきもしない産業構造や政治的な背景や、個人が置かれた社会経済的な状況によってすでにある程度決まってしまっている。
さらにいえば、健康づくりに関して「自分で選択している」と思っているものでも、実はビジネスの構造に取り込まれ、マーケティングの力で「選択させられている」というケースがとても多いんです。そういうからくりを理解した上で正しい選択をしてほしいという思いも強く、私のパブリックヘルス(公衆衛生)の知識を、すべてこの本に出し切りました。
――林さんは、最初のキャリアはニューヨークの広告会社だったんですよね?
林:はい。ボストン大学教育大学院修士課程、ハーバード大学公衆衛生大学院修士を経て、博士在籍中も最初のフルタイムで学生をしなければならなかった2年間以外は、外資系広告会社であるマッキャンヘルスで戦略プランナーとして勤務していました。東京、ロンドン、ニューヨークと勤務して、人を健康にするためのキャンペーンとか、健康プログラムの企画やリサーチなどにずっと携わっていました。クライアントは主に国際機関や政府の機関、そして健康ビジネスに関わる企業でした。
マッキャンヘルスではCEOをはじめ、パブリックヘルスに造詣が深いマネジメントが揃っていたので「人を健康にするための戦略づくり」を仕事にしていました。でも長年広告産業に携わったことで、会社の仕事以外のところで、ビジネスと健康のつながりを目の当たりにする機会が多くありました。その中には、言わば「人を不健康にするような産業」も多くありました。もちろん、自分が直接携わったわけではありませんが、そういう産業のビジネスの仕組みが見えてしまうことも多かったですね。
本にも書きましたが、タバコやアルコールの会社が、若者の禁煙や多量飲酒の予防のキャンペーンをするみたいな、一見良さそうではあるけれども、これは一体どういうことだろうと思う事例もありました。
なぜなら、実は、そういう不健康商品を販売している会社が行う健康のキャンペーンは健康の目的において正しく機能しないというエビデンスが出ているからです。だから、例えばタバコ会社が社会的な活動の一環としてよく行っている若者の喫煙防止キャンペーンは、効果がなかったり、逆効果を生み出す可能性があるという研究も、結構前から複数の研究で指摘されています(*2, 3)。
そういった会社が純粋に社会のためにと思って手がけたキャンペーンがたまたま逆の効果になってしまったのか、それとも意図してそう作られているのかまでは研究や公になっている資料からはわかりません。でも、結果的に不健康になるキャンペーンをしてしまっている以上、問題だと感じています。こういった事実は多くの人は知らないのではと感じました。
西内:逆に吸いたくなっちゃうんだ。
林:そう。アメリカで言うと、全米のタバコ会社がマーケティングに使うお金って、日本円に換算すると1日あたり日本円で29.5億円(22.5億ドル・一ドル130円換算)にも上るんです(*4)。これは1時間あたり約1億3000万円です。ファストフードの会社は1日17億円を広告に費やしているなんていう数字が出ている(*5)。1年ではないです、1日です。
そんな世の中に、何も知らない一般の人が無防備に出ていったら、知らず知らずのうちに目にするマーケティングや広告に取り込まれてしまうのは明らかであり、ある意味仕方のないことだとも思います。
一方で、自治体でワークショップや講演を頼まれることも多く、各自治体で地域の人々の健康づくりのために頑張っている人たちから「なかなか効果が出ない」という相談を受けることも多くて、すごくもどかしさを感じていたんです。健康・不健康ビジネスのからくりを知ってしまった以上、ちゃんと警鐘を鳴らさないといけないと思い、さまざまな構造についても書き切りました。
ただ注意したのは、私が書きたかったのはいわゆる業界の暴露本ではないということ。SDGsやそれに伴うビジネスの流れを見ても、今後は世界中が人や地球の健康や環境に向かっていく時代です。そんな時代においては、不健康を作り出すビジネスは市場がなければビジネスにならないわけで、まず市場の対象になっている人たちにそういったビジネスのからくりを伝えたかった。
そして、市場の転換への流れと共に、今はそういったビジネスモデルを使っている企業にとっても、健康を作り出すことで成り立つビジネスモデルにゆくゆくは転換してもらいたいという気持ちを込めて書いています。
健康経営に本腰を入れれば、従業員のパフォーマンスはがらりと変わる
――西内さんは、エビデンスに基づく健康生活を送っていらっしゃるんですか?
西内:いや、だいぶ崩れてはいますね。せっかく運動習慣が身に付いたのに、忙しくなるとリセットされてしまっている。
林:そうなんですよね。専門家でも、なかなかできないんですよ。健康習慣の乱れは、ダイレクトに健康診断の数値に結び付くだけではなくて、ジャンクフードに手が伸びたり、タバコとかアルコールなどの嗜好品を欲してしまったりするのが怖いところです。
そして、私が個人的に一番驚いたエビデンスが、職場の上司と健康の関係。自分の上司が労働時間や働き方に柔軟かどうかで、働く人だけでなくその家族の睡眠時間やファストフードの摂取量にまで影響を与えることがわかっています。働く職場も、実は本人だけではなく周りの人の健康に大きな影響を及ぼしているんですよね。
西内:今、経済産業省が「健康経営」を進めています。「健康経営」とは、企業が従業員の健康に配慮することで、経営面においても大きな成果が期待できるという経営手法のこと。これまでは、従業員の健康は福利厚生の文脈で取り組まれてきましたが、国が「従業員の健康への投資は、経営に資する投資である」という考え方を明確に示しています。
健康経営では、まず仕事のパフォーマンスや離職率など、従業員の健康に関するデータを整理したうえで、課題を分析しどの指標をどう改善するか、そのためにいくら投資するのかなどを決めて取り組むのですが、多くの企業が「適当に決めちゃっている」のが現状なんですよね。この数値は健康に関係していそうだから、〇〇をすれば効きそうじゃない?みたいな感じで。
林:なんとなく「これやってみよう!」ってことですか?
西内:産業医の先生のアドバイスぐらいはもらっているのでしょうが、基本的には専門知識のない経営陣や、人事部門や経営企画部門の人が取り組んでいるから、仕方ない部分もあるかもしれません。
でも、きちんと研究者が作るようなレベルで調査設計を行えば、従業員に健康状態に関するアンケートを取って、健康状態が仕事のパフォーマンスに影響を及ぼしているかどうかを丁寧に検証できるはずなんですよ。そうすれば、解決すべき健康課題や効果的な打ち手が見えてくるはずです。そして、林さんみたいな専門のプロにレビューしてもらってどんなプログラムを実行するべきかまで落とし込めば、成果が挙げられるはずなのに。
林:西内さんの会社で、データを精緻に出して、何をすればスコアが改善されて従業員が健康になり、ひいては会社も健康になるのか、逐一追えるようなシステムを開発されているので、公衆衛生の知見も合体して、2人で企業に働きかけていきたいねと話しています。せっかく健康経営の気運が高まっているなかで、エビデンスを使わないのは効果・効率的にもとてももったいないことです。
――お二人が組めば、かなりの影響力が期待できますね。
西内:食事が不規則とか睡眠不足とか、ストレスとか、どれも仕事のパフォーマンスに大きな影響を与えることがわかっています。でも、多くの会社員は万全のコンディションではなく、人によっては6~7割のコンディションで自分をだましだまし働いていたりするんです。
逆に言えば彼らがちゃんと、ベストコンディションで働けるようになったら、仕事のパフォーマンスがぐんと上がって、1.5倍ぐらいのアウトプットになるかもしれない。でも逆に、このまま放置してしまうと、とんでもない損失額になってしまう恐れもあります。
林:出勤はしているけれど、全然集中できてないとか、ずっとイライラしているとか。これではアウトプットは期待できないですよね。こういう「身体は出勤しているけれど心身の健康状態が理由で、心は欠勤、つまり職場できちんと機能していない」という状態を専門用語で「プレゼンティーズム」というのですが、これを減らすためのエビデンスもたくさんあります。
本にも書いたように、職業別に特徴のある健康問題があります。また、業界や会社の規模によっても、働き方や健康問題の特徴は異なり、業界に特化した取り組みに関するエビデンスも蓄積されつつあります。業界や組織の特徴を踏まえた上で、どのようにしたら社員や下請け業者、さらに広げると商品やサービスを利用する顧客(消費者)なども含めた関係者の健康が促進されるかという取り組みのエビデンスは、積み重ねられてきています。ですが、残念なことに、こういったエビデンスは現時点ではほとんど活用されていないんです。西内さんと「これだけで1冊本が書けちゃうね」と話していたんですよ。
――それも面白そうですね。
林:会社員の場合、起きている時間の中で会社にいる時間が一番長い。本でも書きましたが、健康には環境がものすごく大事だから、会社のルールはもちろんのこと、細かいことを言うと座席の配置とか、おやつをどこに置くかとか、喫煙所をどこに置くかとか、そういうハード面の導線や、働き方に対する柔軟性などのソフト面がすべて従業員や従業員の家族の健康に関わってくるんです。
逆に、そこをある程度組織として動かせるので、健康経営はきちんとエビデンスに基づいてやれば効果が望める分野です。これらの話を本にまとめたいという思いもありますし、西内さんの会社と一緒に実際に企業に入り、データをきちんと取りながら従業員の健康を見直していければとも思っています。
【次回に続く】
【参考文献】
*1 Wegner DM, Schneider DJ, Carter SR III, White TL. Paradoxical effects of thought suppression. J Pers Soc Psychol. 1987;53:5-13
*2 Wakefield M, Terry-McElrath Y, Emery S, Saffer H, Chaloupka FJ, Szczypka G, Flay B, O'Malley PM, Johnston LD. Effect of televised, tobacco company-funded smoking prevention advertising on youth smoking-related beliefs, intentions, and behavior. Am J Public Health. 2006 Dec;96(12):2154-60.
*3 Tobacco Free Kids, BIG SURPRISE: Tobacco Company Prevention Campaigns don’t work; Maybe Its because they are not supposed to, Factsheet, Available from https://www.tobaccofreekids.org/assets/factsheets/0302.pdf
*4 CDC, Tobacco Industry Marketing, Available from https://www.cdc.gov/tobacco/data_statistics/fact_sheets/tobacco_industry/marketing/index.htm
*5 University of COnneticut, Rudd Center for Food Policy and Obesity, Fast Food Facts 2021, Available from https://media.ruddcenter.uconn.edu/PDFs/FACTS2021.pdf
パブリックヘルスストラテジスト・公衆衛生学者(行動科学・ヘルスコミュニケーション・社会疫学)、Down to Earth 株式会社代表取締役、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート特任准教授、東京大学・東京医科歯科大学非常勤講師
1979年千葉県生まれ。2004年早稲田大学社会科学部卒業、2006年ボストン大学教育大学院修士課程修了、2012年ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程を経て、2016年同大学院社会行動科学部にて博士号取得(Doctor of Science:科学博士・同学部の博士号取得は日本人女性初)。専門は、行動科学・ヘルスコミュニケーション、および社会疫学。一人でも多くの人が与えられた寿命を幸せに全うできる社会を作ることが使命。様々な国で健康づくりに携わる中で、多くの人たちが、健康法は知っていても習慣づける方法を知らないため、やめたい悪習慣をたちきり、身につけたい健康法を実践することができないことを痛感する。長きにわたって頼りになる「健康習慣の身につけ方」を科学的に説いた日本人向けの本を書きたいと思い、『健康になる技術 大全」を執筆した。
2007年から2020年まで、外資系広告会社であるマッキャンヘルスで戦略プランナーとして本社ニューヨーク・ロンドン・東京にて勤務。ニューヨークでの勤務中に博士号を取得。東京ではパブリックヘルス部門を立ち上げ、マッキャンパブリックヘルス・アジアパシフィックディレクターとして勤務後、独立。2020年、Down to Earth(ダウン トゥー アース)株式会社を設立。社名は英語で「実践的な、親しみやすい」という意味で、学問と実践の世界を繋ぐことを意図している。現在は、国際機関や国、自治体、企業などに対し、健康に関する戦略・事業開発、コンサルティングを行い、学術研究なども行っている。加えて、個人の行動変容をサポートするためのライフスタイルブランドの設立準備中。2018年、アメリカのジョン・ロックフェラー3世が設立したアジアソサエティ(本部・ニューヨーク)が選ぶ、アジア太平洋地域のヤングリーダー“Asia 21 Young Leaders”に選出。また、2020年、アメリカのアイゼンハワー元大統領によるアイゼンハワー財団(本部・フィラデルフィア)が手がける、世界の女性リーダー“Global Women’s Leadership Fellow”に唯一の日本人として選ばれる。両組織において、現在もフェローとして国際的な活動を続ける。
『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』(小学館)をプロデュース。著書に、『健康になる技術 大全」(ダイヤモンド社)、『それでもあきらめない ハーバードが私に教えてくれたこと』(あさ出版)がある。
https://hanahayashi.com/