ベータ版で利用者を開発に巻き込むことは「正しい」ことか
このようなやりとりを眺めながら、私は倫理の在り方について考えます。
ハードウエアからソフトウエアにビジネスの重心が移動してきて、開発の現場では一つのフレーズが闊歩します。それは「ベータ版を市場に出してユーザーの反応を得ながら完成度を高める」というものです。
ハードウエアにおいて試作品を市場に投入する例はまれで、特に自動車のような人命に関わる製品ではご法度ともいえますが、パソコンやスマホで使うアプリ開発の場合、比較的敷居は低くなります。使い勝手が悪かったとしても、ユーザーに「これじゃあ二度と使わないな」という体験を残すのみで、それ以上のダメージがないからです。ベータ版で市場のフィードバックを得るという手法は、インターネットによって一般的なものとなりました。従って、「出来損ない」に文句を言うのは、そういった開発手法を理解せず、良質なフィードバックできない「B級の人」との見方も強くなります。
世の中の動きとは興味深いものです。出来損ないが市場に多く出回ると、今度は「自分たちのビジネスのために、ユーザーの時間と労力を利用するのは、倫理的にどう思うのか」と開発者に対する疑問を抱く人が現れます。人々の善意をビジネス目的に悪用していると見るわけです。そして「そんなことに付き合っていられないよ」と感じる人も出てきます。もちろん、開発者はベータ版の問題点を事前に説明し、かつ市場からのフィードバックを十分に開発へ反映するという姿勢を明確にした上でのことです。それでも、倫理的な感度が高まり、多くの試作アプリは以前ほどには歓迎されなくなります。
そのようなベータ版を巡ってさまざまな経緯があるにもかかわらず、今回のChatGPTへの反応に見るように「ポテンシャルは絶大だ」とそれなりの数の人が判断し、自らも試してみて新しい可能性を実感すれば、「うそつき」であろうと「発達途上なのだから、寛容に見るべき」との意見が勢いを増していくのです。
ここから分かるように、倫理に関わると見なされることは、状況とプロダクトが提示する内容によって変わってきます(誤解されると困るので書いておきますが、ベータ版と倫理の関係を話しているのであって、AIと倫理の関係を話しているのではありません)。個別のコンテクストに依存するのです。何かの規則のようにどの部分に抵触したら間違いなく非難されるというものではありません。だからこそ、自ら努めて意識しないといけません。簡単ではないから、多くの注意を払う必要があるのです。
以上を踏まえると、意味のイノベーションにおいて倫理をどのように捉えると良いのでしょうか。