信長の天才と安土城が
日本の経済と社会を変えた
江戸時代の城は、大名の住居と政庁を兼ね、多くの武士と町人が住む城下町があった。こうした城と城下町ができたのは、戦国時代末期以降だ。室町時代の守護館はほとんど防備を持たなかった。山口、駿府、それに越後の府中などがそうで、戦いになれば険しい山上にある砦(とりで)に移ったりしたが、城下町の規模は小さく、武士はそれぞれの領地に住むのが普通だった。
鎌倉は海に面し、三方が山に囲まれた扇状地に位置し、同じような谷間の奥に位置する城としては、一乗谷や躑躅ヶ崎(つつじがさき)があり、浅井氏やお市の方がいた小谷城も、もともとは、清水谷という麓の谷に居館があった。しかし、戦いが激しくなると、居城が背後の山上に設けられ、浅井一族も最後は小谷城に住んで、浅井三姉妹のうち末っ子の江(2代将軍秀忠夫人)だけはここで生まれている。
だが、大規模な石垣や堀を建設する技術が向上してきたので、少し低い丘に立つ平山城が増え、安土城では天守自体が居館としての機能を持つなど、信長とその一族は山上で暮らしていた。
さらに、平地に大規模な石垣や堀を巡らせた平城も多くなったし、平山城の場合でも麓の二の丸や三の丸に御殿を造って藩主の居館や政庁もそちらに移ることが多くなった。仙台、松山、熊本などがそうである。江戸、大坂、福岡、金沢などは、丘陵地の先端部分に築かれ、標高の高い側(江戸城だと北から西側)だけに深い堀や高い石垣を何重にも巡らせて防備を固めた。
また、戦国期までの城は、大規模な商業地区を含むような都市はなく、商業機能は近在の集落に立つ市などに頼っていることも多かった。小谷城もそうで、城下町はなかった。家臣たちも主君の館や城の近くに小さな館を構えたとしても、生活の本拠は農村の領地の屋敷だった。
ところが、織田信長は、農村から城下町の武家屋敷に引っ越すこと、いわば「兼業禁止で社宅住まい」を徹底した。あるとき、安土で出征中の武士の家が火事になったのだが、そのとき、家族は尾張の本宅に勝手に帰って留守だったことがばれて、怒った信長は、彼らの尾張の屋敷を取り壊して、安土への移住を強いた。