だが「ずらし旅」は今後の旅行産業に不可欠な要素である。みずほ総合研究所が2020年6月に発表したレポート「コロナ禍の観光振興」は、国内旅行のマーケットを振興する上での課題として、旅行需要の過度な集中を挙げている。

 日本人の旅行は時間的制約からゴールデンウイークや夏季、冬季の長期休暇や祝日を含めた3連休に偏っており、交通機関や宿泊施設は混雑し、費用は高くなる。また繁忙期が偏ることで従業員はアルバイトなど非正規雇用に依存しがちという課題もある。平日にも気軽に旅行ができるようになれば、旅行産業の拡大や旅行需要の底上げが期待できるというわけだ。

 JR東海にとっても、平日の新幹線を利用した旅行が定着すれば、増収だけでなく利用の平準化も期待できる。そのために、全体の売り上げから見れば微々たる規模であっても、新たな旅行需要を喚起するため、東京・名古屋・大阪から比較的近く、日帰りや1泊程度で観光できる穴場的観光地の発掘を続けている。

JR東海が1月から展開する
「どこ行く家康」キャンペーン

 前置きが長くなった。そんなJR東海が今年1月から展開するのが愛知、静岡エリアを中心とした「どこ行く家康」キャンペーン。名称から分かるように徳川家康を主人公とする2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」に乗っかったものだ(筆者は早々に脱落したのでドラマの評価は差し控えさせていただく)。

 家康ゆかりの地といえば彼が興した名古屋、戦国武将としての地位を築いた浜松、東照宮を擁する日光のイメージが強いが、JR東海が推すのはかつて駿府と呼ばれた静岡市だ。駿府とは駿河府中を意味するが、明治維新後に「府中」が「不忠」に通じるとして、駿府城近くの賤機山(しずはたやま)から音を取り「静岡」に改名した経緯がある。

 家康にとって駿府は始まりと終わりの町である。1543年生まれの家康は6歳(数え年)の時に人質として今川義元の治める駿府に入り、当地で元服した。1560年の桶狭間の戦いで義元が討たれると、織田信長と和睦して岡崎城、浜松城を拠点に勢力を伸ばす。

 豊臣秀吉政権下で駿府に戻るが、1590年の小田原攻めを機に関東に移封され、江戸を拠点に天下を取った。家康は1605年に将軍職を秀忠に譲り、1607年に駿府城に移るが、以降も1616年に75歳で死ぬまで「大御所」として引き続き政治に関与した。結局、家康は人生の3分の1を駿府で過ごしたことになる。

 駿府城下町は家康が駿府に戻った17世紀初頭に完成したとされており、江戸の人口が15万人程度だったところ、駿府の人口は10万人に達していたという。駿府城を中心とする町割りは今も当時の姿を残している。

 城西には駿府の鎮守として、富士山を神体とする浅間神社、駿河国総社の神部神社と大歳御祖神社から構成される静岡浅間神社が置かれた。家康は浅間神社で元服式を行ったと伝えられており、一時期、駿府を支配した武田家攻略に当たっても戦勝を祈願した。

写真:浅間神社拝殿浅間神社拝殿(筆者撮影)

 戦国期に荒廃した浅間神社は、17世紀初頭に家康によって再建されたが、1773年と1788年の2度の大火で焼失し、現在の社殿は1804年から1865年にかけて再建されたものだ。

 ちなみにこの過程で全国から職人が集められ、静岡の木工業が発展した。それが近代に模型産業につながり、タミヤ、アオシマ、ハセガワなどの模型メーカーを輩出。現在では全国のプラモデルの9割を生産する模型王国となっている。

 職人が造り上げた拝殿は圧巻だ。日光東照宮に次ぐ規模のうるし塗り建築で、木造神社建築としては出雲大社本殿をしのいで日本一高い25メートルにも達する。これは神体である富士山を模したものとされ、背後の高台に設けられた本殿を雲上になぞらえる意味があるそうだ。