近年の脳神経科学のもっとも大きなイノベーションのひとつが光遺伝学だ。これを要約すると「光によって脳細胞を操作するテクノロジー」になるが、これではなんのことかわからないだろう。

 スタンフォード大学の神経科学者カール・ダイセロスは光遺伝学の分野を牽引する第一人者で、京都賞をはじめ数々の受賞歴があり、ノーベル賞の最有力候補とされる。『「こころ」はどうやって壊れるのか 最新「光遺伝学」と人間の脳の物語』(大田直子訳、光文社)ではそのダイセロスが、脳の謎に挑んだ自らの半生を綴っている。

光遺伝学により、精神疾患に苦しむひとたちが脳の秘密をわたしたちに教えてくれるIllustration:user Tanushka/PIXTA

 このように紹介すると、本書は脳神経科学の最先端についての専門書だと思うだろうが、その予想はジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』の引用でいきなり覆される。精神科医でもあるダイセロスは、うつ病、双極性障害、統合失調症、ASD(自閉症スペクトラム障害)、境界性人格障害、摂食障害、認知症など、これまで出会った患者たちとの印象的なエピソードを文学的に描いたうえで、その脳科学的な背景として光遺伝学の成果を紹介しているのだ。

 これは、ダイセロスの衒学趣味というわけではない。感情(情動)は脳が生み出すが、だからといって生物工学だけでその謎を解き明かすことはできない。心の治療とは、機械の故障を直すように、脳の欠陥を遺伝子・細胞レベルで修繕することではなく、医療者は患者の人生の物語に寄り添わなければならないという信念があるのだろう。

 本書に登場するのは、心が「壊れた」ひとたちばかりだ。序章でダイセロスは、「壊れたものが壊れていないものを説明する」と述べている。精神疾患に苦しむひとたちが、脳の秘密をわたしたちに教えてくれる。邦題の『「こころ」はどうやって壊れるのか』は、ここから取られているのだろう。

 原題は“PROJECTIONS; A Story of Human Emotions(プロジェクション 人間の感情の物語)”で、projection(投射)は脳の細胞が、軸索によって脳の他の部位に電気的・化学的な信号を送ることをいう。

「光遺伝学(Opto-Genetics)」が誕生した瞬間

 光遺伝学という驚異的なテクノロジーによって、脳がどのようにネットワークされており、それが阻害されるとどのような症状が現われるのかを、細胞・ニューロン単位で解明することが可能になった。しかしなぜ、光で脳を操作できるのだろうか。

 そこでまずは、ダイセロスと共同研究を行なってきた加藤英明氏(東京大学大学院総合文化研究科先進科学研究機構・准教授)の解説「オプシンと光遺伝学」とあわせて、わたしが理解した範囲で、この驚くべきテクノロジーを紹介してみよう。

 生命誕生の謎はいまだ解明されていないが、最初の生き物がエネルギーとして利用したのは、おそらくは光だった。太陽光こそが、地球の表面に普遍的に存在し、もっとも利用しやすいエネルギー資源だったからだ。

 こうして生き物は、光をさまざまな資源に変換する仕組みを進化させていった。植物は葉緑素によって太陽光を栄養にできるし、動物は太陽光の変化を視覚で感知して世界を探索するようになった。

 1870年代、カエルの網膜から「光を当てると退色する赤色の物質」が単離された。薔薇色(rose)の光(opto)を吸収するこの物質はロドプシン(Rhodopsin)と名づけられ、膜タンパク質である「オプシン」にビタミンAの誘導体である「レチナール」が結合したものだとわかった。わたしたちがものを見ることができるのは、網膜内の視細胞に発現しているロドプシンが光を吸収・活性化して、Gタンパク質と呼ばれる別のタンパク質を産生するからだ。

 ロドプシンは網膜に特有の物質だと考えられていたが、1971年、特定の条件下で一部の古細菌を培養すると、細胞膜上にレチナールを含む紫色の膜構造、すなわちロドプシンが現われることが発見された。光に反応する細胞は、視覚をもつ動物だけではなく、進化の歴史のなかでもっとも古いとされる細菌にもあった。光を変換することは、生命の本質だったのだ。

 その後、微生物ロドプシン研究によって、生き物がさまざまな方法で光を利用していることが明らかになった。1977年には向畑恭男氏らが、「光依存的に細胞外から細胞内に塩化物イオンを運び入れるポンプ型微生物ロドプシン」であるハロロドプシンを発見した。そして2002年、「光により活性化されると陽イオンを透過するイオンチャネル型微生物ロドプシン」が、クラミドモナスと呼ばれる緑藻網の単細胞真核生物から単離された。このロドプシンは、細胞内にイオンを出し入れするチャネル(経路)のようなものなので、「チャネルロドプシン」と名づけられた。

 脳のニューロンでは、陽イオンが細胞内に流入、あるいは陰イオンが細胞外に流出すると(脱分極)、膜電位が上昇して神経細胞が興奮する。逆に、陽イオンが細胞外に流出、あるいは陰イオンが細胞内に流入すると(過分極)、膜電位が低下して神経細胞の興奮は抑制される。

 そこで神経科学者たちは、チャネルロドプシンを使ってニューロンの興奮状態を制御できるのではないかと考えた。細胞にチャネルロドプシンを埋め込み、その部分に光を当てると、ロドプシンが反応してチャネル(トンネル)が開き、細胞内にイオンが流れ込むのだ。

 2007年、ダイセロスらのグループはマウスの運動野の神経細胞にチャネルロドプシンを発現させ、脳内に挿入した光ファイバーを介してその神経細胞を活性化させることで、ヒゲの運動を制御することに成功した。これが、「光遺伝学(Opto-Genetics)」が誕生した記念すべき瞬間とされる。