そもそも、ギフテッド教育が公的に行われたのは今回が初めてではない。第二次世界大戦末期には、『特別科学学級』という名の、全国から選抜された優秀な児童がエリート教育を施される教育が行われていた。だが、敗戦後は連合国軍総司令部(GHQ)により解体を余儀なくされた。この時点で、日本は「公平平等な、足並みをそろえた教育制度がスタートした」と中邑氏は言う。
「しかし、小規模、あるいは公的ではない特別な教育は、これまでも自然と行われていました。たとえば、スポーツや芸術の分野に秀でた生徒への特待生制度、文科省が科学教育を重点的に行う高校を指定するスーパーサイエンスハイスクール制度など。親が子どもに家庭教師をつけるのも、特別な教育の一環だったといえるでしょう」
「ギフテッド」の独り歩きに
幼児教育の競争激化リスクも
政府が本格的に支援に乗り出すことで、これまで周囲になじめなかった特異な才能を持つ子どもたちが、より前向きに学びやすい環境が整うことへの期待が高まっている。
ただ一方で、公的に「特別な子どもへの支援」に乗り出すことには、「ギフテッド」という言葉がよりブランド化されてしまうという弊害が考えられるという。
「いまの段階では、小学校入学前に英語の読み書きや計算ができるような子がギフテッドといわれがちです。しかし、これでは、単に他の子よりも早く塾に行った子だけが、その時点で『自分は天才だ』と勘違いしてしまうだけで、実質的な経済格差が反映されたにすぎないケースもままあります。にもかかわらず、こうした子供たちの親の多くは、『自分の子はギフテッドだから、もっと進んだ教育を……』とさらに塾に投資していく。その結果、小学校に入学後、子ども自身が『学校の授業がつまらない』と学習への意欲をなくしてしまう。そして、小学校5年生くらいになると、ほかの子となんら変わらない成績になることも珍しくありません」
なかには、親から過度な期待をかけられたものの十分な成績を残せず、途中で精神面に支障をきたしてしまうケースもあるという。『親の思うようには伸びなかった』と罪悪感を覚えたり、『親の言うとおりに生きていたのに天才になれなかった!僕の人生をどうしてくれるのか!』などといった思考になる子どもも少なくないそうだ。
「政府の支援により、仮に子どもが学習への意欲を失わず、トップ校に入学したとしても、その結果が国に還元されることはごくわずか。それなのに、公金をそこまでつぎ込むべきなのかという疑念もあります。加えて、私自身、一般的に能力が高いとされる大学生と接していても、細かい指示をこちらから出さないと物事を進められないような学生も見受けられる。単なる知識だけでなく、主体性や行動力も伴った教育のあり方を考えていく必要を切に感じています」
親の教育で知識は蓄積するものの、図鑑ばかり読んでいるのに実物の虫には触ろうとしない、英単語を覚えても外国人とのコミュニケーションにはおびえるといったケースも少なくないという。