イギリスが日本までの
北極海回り航路を模索

 このころスペインが東日本の家康や政宗と交流したのは不思議に見えるが、実は、メキシコからマニラへは直行が可能だが、復路では風向きから北回りの大圏航路を通る必要があり、寄港地として東日本の港が欲しかったからである。

 しかし、マニラの商人たちが「日本と中国を結ぶ通商が始まるとマニラが捨てられる」と心配して妨害したので、フェリペ3世の政府は伊達政宗の提案を受けなかった。

 オランダはスペインの領土だったが、プロテスタント弾圧に耐えかねて、1579年にユトレヒト同盟で事実上の独立を宣言した。そのオランダは、東回り航路でポルトガルが持っていた権益を奪取した。日本の鎖国も、ポルトガル船を閉め出してオランダが交易を独占したということだが、その過程で、リーフデ号がやって来たのである。

 こうして、イギリスも日本に興味を持ち、ジェームズ1世の使節が日本に来た。しかし、東回り航路はポルトガルやオランダに押さえられていたし、南米最南端のマゼラン海峡周りでは遠すぎた。そこで、北極海回り航路が模索されたのである。

 なぜなら、夏の間だけなら可能なように見えたのである。実際、ロシアは17世紀以前、海への玄関口を持たなかったが、1584年にイワン雷帝が北極海につながる白海にアルハンゲリスクを開港して、ロンドンと夏の間だけの航路を開いた。ついで、1649年にオホーツク海に進出したが、バルト海や黒海への進出は18世紀になってからだったから、それまでは、北極海航路を使っていた。

 東インド会社は、1609年に探検家ハドソンをカナダに派遣して、ハドソン湾を発見し、西へ進もうとしたが、船員たちの反乱で、ハドソンは厳寒のハドソン湾に置き去りにされて行方不明になり、地名だけに名を残し、日本への航路も実現しなかった。

 なお、最近では地球温暖化で砕氷船を使わずに航行が可能な時期もあるという報告もあり、もしかすると日欧間の最短航路という徳川家康の希望が正夢になるかもしれない。

 東回りについては、長崎県の平戸にイギリス商館が置かれたが、東南アジアで英蘭の対立が激化し、1623年のジャワ島のアンボイナでのオランダによるイギリス人虐殺で東南アジアからイギリスは撤退し、インドでの勢力拡大に専念し、平戸のイギリス商館も閉鎖された。

 その後、ナポレオン戦争の余波でイギリス船フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入する事件があったが(1808年)、イギリスは中国進出を優先したので、日本との本格交流はペリー来航後になったのである。