自分の大切な人が、なんらかの理由で手足を付け替えることになり、現代の言葉で言う「サイボーグ」になって現れた場合、どうでしょうか。ぼくらは「(サイボーグでもなんでも)生き延びてくれてほんとうによかった」と喜ぶはずです。その人はその人なので、「もうヒトじゃなくなってしまった」なんて感じることもないでしょう。
反対に、身体は元のままでも、性格や話すことが変わって他人のようになってしまったら、以前のように意気投合できず、「まるでちがう人になってしまったようだ」と悲しむのではないでしょうか。
ぼくらは解釈したいように解釈します。大切な人の好きな部分が残っていれば満足だし、それが失われてしまったら不満なのです。
しかし、今後は想像もしていなかった変化が起こる時代です。
相手に変わらないことを期待していても、環境の変化に応じて相手も変わる機会が増えます。結果的に裏切られたように感じることも増えるかもしれません。
そんな時代に幸せに生きるためには、相手が変わっても、変わらなくても、目の前にいる存在の「いま」の姿を認め、リスペクトすること。そして、たとえ失われた部分があったとしても、そこにとらわれるのではなく、新たに得られたことに目を向けるといった習慣が大切になるように思います。
生身と機械の差は、
大した問題ではなくなる
2012年のロンドンパラリンピックで、イギリスの公共放送「チャンネル4」が流したCMがあります。「超人たちに会いに行こう(Meet The Superhumans)」と題したそのキャンペーンは、障害のある人々への見方を変える、力強い言葉でした(続編にあたる2016年リオパラリンピックの「We’re The Superhumans」もすばらしい作品です)。
パラリンピアンたちの奮闘に、勇気づけられたことのある人も多いでしょう。
ぼくが特に勇気づけられるのは、彼らの持つ「脳の柔軟性」です。
ロボットの場合、モーターなど一部の機能が故障すると、その故障を事前に想定していないかぎり、それを補完するように運動を変えることはかなりむずかしいと言えます。多数の部品で構成されている精密機器であるロボットは、ほんの少しなにかのバランスが崩れるだけで正常に稼働できなくなりやすいのです。
しかし、人類はちがいます。
どこかの身体機能が欠損しても、脳の柔軟性がそれを補完します。ほかの身体機能を伸長させたり、必要な道具を造ったりして、欠損した機能を補完します。そのときの脳の動きは、健常者のそれとはまったくちがっていることも多いそうです。そのような後天的な学習が実現可能な脳の柔軟性というのは、まさに驚異的です。