また、障害を持つ人々とそれを支える人々によって生み出された義足などの道具類は、有機物と無機物を融合するテクノロジーの最先端として、大きな飛躍を遂げています。今後さらに人類のロボット化が進むと、健常者も積極的にそちらを選ぶケースが出てくるでしょう。
実際に、「両足が義足の子は足の長さを自分で変えられてうらやましい」といった声が健常者から出ていると聞きます。それを「不謹慎だ」という声もありますが、それが人類の自然な反応なのではないかと、ぼくは思います。
自分にないものは、だれしもうらやましい。テクノロジーは、まずは欠損した身体機能を補い、健常者に追いつくことを目指します。どこかで「健常者と同じような生活をしたい」という望みを叶えられるゴールにたどりつきます。しかしそのあとも、テクノロジーは歩みを止めません。その先に「スタイルに合わせて足を伸ばしたい」といったことまで叶えるようになります。このような望みは一般的になっていくでしょう。
その結果として良い面の1つは、自分の足の長さに引け目を持つ必要がなくなることです。自分にないものを欲しがる必要がなくなるので、その日の足が短くても、長くても、選択に過ぎません。自分という存在の「いま」の姿を認め、リスペクトし、ありのままの自分を受け入れられるようになるかもしれません。
このような流れのなかでは、見た目で「どこからがロボットで、どこからがヒトか」「どこからが人工物で、どこからが生き物か」といった問いは、大きな問題ではなくなっていくのだと思います。
価値観は
現実に適応していく
このようにして、徐々にサイボーグ化が進みます。いまはまだ目になにかを埋め込むことが怖い人も、徐々に不安がなくなっていきます。それは、コンタクトレンズが登場したころには目にレンズを入れるのを怖がる人が多かったのに、いまでは広く普及しているのと同じプロセスです。
AIのシンギュラリティに対する社会の変化も同じです。
「いまのぼくら」が、未来に誕生する自律的な意志を持ったAIに不安をいだくのは、自然なことです。ただ、実際にその未来が訪れたときには「未来のぼくら」の価値観や道徳観自体が変わっていて、当然のように受け入れているはずです。
世界が1日で変わらないように、ぼくらの価値観も1日では変わりません。それでも、さまざまなテクノロジーが進歩していく世界で、少しずつ未来に適応しながら、ぼくらはその変化を受け入れていくのです。それは、驚異的な柔軟性を持つ学習能力を備えた人類だからこそ、成し遂げられることです。変わることを恐れても、なにも始まらないのです。