列車内で聞いたヤミ屋の言い分

 終戦後の配給不足の中、米や味噌・醤油など食料を求める東京のヤミ屋が千葉への買い出しに使った総武線・成田線は「ヤミ列車」と呼ばれた。47年4月6日号の記事では、記者が「ヤミ列車」に乗って拾った乗客の声が記録されている。

 午前6時26分、千葉発成田まわり銚子行きの列車。低い背に大きなリュックサックを下げた四十男が、即興らしい浪花節を唸り始める。

<旭輝く東京に、入らぬものが三つある。米に魚に野菜なり。ヤミはいかんと言われても、食わにゃ、いのちがア、アーア保ちませぬウと来やがら>

 これに気分が解けたのか、あちこちで乗客同士の話が始まった。闇商売のおかみさんが、隣の老婦人に向かって、こう気焔をあげる。

<「昨夜もね、十六になる甥が、おばさん、ヤミ屋だけはよしてくれ、なんて生意気なことを言やぁがるからね、そいからお説教してやったんですよ。ヤミ屋ヤミ屋って、何言ってやがる。ほかに五十づら下げたおれに何ができる。立派な商売じゃないか。品物を仕入れにいって口銭取って卸すだけじゃないか。昔から商売ってえものは、そういうものに決まってるんだ。あんまり生意気なこと言うない。そう言ってやったんですよ。だって、そうでしょ。あたしだって、何もこの年して、よる夜中から働きたかアありませんよ、ねえ。だけども、あなた、子供運が悪いってえんでしょうねえ。一人も育たないんでしょ。去年亭主が亡くなって、もう天にも地にも一人っきり。妹の家に厄介になってるんですけどね、こう物が高くちゃあ、妹に迷惑はかけられないし……」>

 当時のヤミ屋は自らをヤミ屋と思わず、マル通や便利屋と称し、自分たちがいなければ生産者も消費者も困るぞ、と存在を誇示していたという。記者は<これでいいのか。国民全部が考えなければならぬ問題だ、ということである>と結んでいる。

 48年2月8日号では、当時、戦災孤児や引き揚げ者、復員者などの浮浪者でごった返していた東京・上野駅地下道で1週間を暮らした記者によるルポが掲載された。