三将軍が改易に処した大名家は圧倒的に豊臣恩顧(おんこ)の外様(とざま)が多く、有名どころでは豊臣秀吉の側近で武断派を代表する2人、つまり加藤清正の加藤家、福島正則の福島家がある。気になるその改易理由だが、いずれも幕府の言いがかりとしか思えない無茶な理由を盾に改易を命じられている。そこには、徳川家が未来永劫、将軍職を世襲するために、なにがなんでも心配の芽(外様大名)を今のうちに摘み取っておきたい、という幕府の強い意志が感じられる。
こうした幕府草創期の大名廃絶政策に暗躍した剣術の一流派があった。戦国時代末期に誕生し、江戸期を通じて隆盛を誇った「柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)」である。年配の方なら、隻眼(せきがん)の剣豪ヒーロー、柳生十兵衛でよくご存じのはず。
この柳生流剣術が大名廃絶政策にかかわっていたとは一体どういうことだろうか。
家康の面前で秘技・無刀取りを披露
柳生新陰流は、戦国時代末期、大和国(奈良県)の小豪族で剣術の道場主でもあった柳生宗厳(むねよし、石舟斎:せきしゅうさい)が、当時天下第一の兵法者との呼び声も高かった上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)から手ほどきを受けて編み出した剣術の一流派である。
そのままであれば柳生新陰流は田舎剣法の一つとして、歴史の片隅に埋もれていく運命にあった。ところが、やがて思わぬ転機が訪れる。その転機をもたらしたのはほかでもない、徳川家康であった。
朝鮮出兵のさなか、家康が京都に滞在していたときのことだった。自身も剣術に打ち込んでいた家康は石舟斎の評判を伝え聞き、さっそく石舟斎を引見して流派の秘技「無刀取り」を面前で披露させたのである。
家康はこのとき、石舟斎の水際立った手並みに驚嘆し、そしてそれ以上に石舟斎が説く、無闇に人を傷つけず人をいかす「活人剣(かつにんけん)」の思想に大いに興味を持った。
心を動かされた家康がその場で石舟斎に入門を請うたところ、石舟斎は自分はすでに老齢だからと断り、かわりに息子の宗矩(むねのり)を推挙し認められている。
このとき柳生宗矩は24歳。徳川家に兵法指南として二百石で新規召し抱えが決まる。文禄三年(1594年)のことだった。こうして名もなき田舎剣法──柳生新陰流は晴れて世に出ることになったのである。