宗矩には剣術以外にも得意なことがあった
家康は自分に仕えることになった宗矩の才知をすぐに見抜いた。この男をただの兵法者にとどめておくのは惜しいと考えたらしく、天下分け目の「関ヶ原の戦い」の直前、宗矩に対しある密命を与えている。それは、柳生庄に立ち返り、大和の筒井氏やその周辺の有力豪族たちの間を回って、いざ合戦となった際は石田三成ら西軍の後方を牽制するよう説得してほしいと家康から直接依頼されたのである。
難しい依頼だったが、宗矩はこれを見事にやり遂げた。このときの功績によって関ヶ原後、宗矩は父の代で失っていた柳生庄二千石を取り戻すことに成功している。
実は、柳生一族には古来、優れた情報収集能力や交渉術が備わっていた。柳生家の祖先は学問の神さま、菅原道真だと言われており、11世紀前半に一族の中から菅原永家という者が現れ、関白藤原基経(もとつね)が現在の奈良市東部に所有していた山あいの荘園(小柳生:こやぎゅうと呼ばれた)の管理を基経から任され土着したことに柳生家の歴史は始まる。
以来、政治・経済の中心の京都に近かったため、小豪族となった柳生一族は常に戦乱の渦に巻き込まれてきた。それでも生き残ってこられたのは、その時々の時勢と周辺の豪族たちの顔色を的確に読み、離合集散の判断を誤らなかったからだ。こうした菅原永家以来培われてきた小豪族ゆえの情報収集能力や交渉術は子孫の宗矩の体の中にも脈々と受け継がれていたのである。
全国を網羅する諜報ネットワークを構築
関ヶ原後、二代将軍秀忠の兵法指南となった宗矩は三千石の大身旗本(たいしんはたもと)となる。このころから、柳生新陰流を当藩でも学びたいので、門弟の中から適任者を派遣してほしいという依頼が宗矩のもとに各藩から盛んに舞い込むようになる。
それはそうだろう。柳生新陰流が将軍家の御流儀(ごりゅうぎ)となったことで、各藩も忠誠心を示すためそれに倣おうと考えるのはごく自然なことだった。特に、将軍家のご機嫌を損ねたくない外様ほどそれが顕著だった。宗矩はそれらの要請に応え、門弟たちを次々に各藩へ送り込んだ。
こうして派遣された門弟たちは兵法指南という立場上、藩の機密事項に接する機会も多く、つかんだ情報をこっそり江戸の宗矩のもとに知らせた。そのため宗矩は江戸に居ながらにして全国の各藩の内部事情を細大漏らさず知り得ることができたのである。なんのことはない、宗矩は「柳生新陰流指南」を表看板にしながら、全国津々浦々を網羅する諜報ネットワークを構築していたのである。今日的な表現を借りれば、宗矩は「江戸のCIA(中央情報局)長官」だったということになる。