「脱毛は比較的身近でオープンなものになってきているように思われます。美容整形もそうですが、以前よりはあまりネガティブに捉えられないようになってきているようです。男性に関して言えば、一昔前では『すね毛をそるのは気持ち悪い』という意見があったと思いますが、現在ではすね毛をそっていたとしてそこまで批判されません。また、性別に関係なく、清潔志向、美白志向がより強まっていることも背景にあると思われます。髪の毛以外の毛は、邪魔なものという認識になってきているのかもしれません」

 そして、先述のような広告の増加や脱毛に関するネット上の情報の氾濫は、さらにその意識を強め、人々の心理面に影響する可能性もあるという。

「現在は、外見に関する意識がより大きなウエートを占めている時代と言えるかもしれません。電車からインターネット上まで脱毛の広告は増えていますし、インターネットでは、利用者の志向に合わせた情報がレコメンドされやすいですから、ますます脱毛などに関する情報に囲まれるようになる。そうなると、脱毛することが当然であるかのように思い込んでしまう可能性もあります」

 実際、過剰な脱毛広告に対しては「脱毛しなければならないという同調圧力をあおるのでは」という批判が向けられている。

「広告の増加は、一概に良しあしを判断できるものではありません。しかし、脱毛するのが当たり前で、しないのはおかしいという圧力が発生すると、社会としては不健全な状態であるといえます。例えば、金銭的、体質的に脱毛ができない人を追い込んでしまうような状況は問題だと思われます。また、学校などで、脱毛しないからいじめられるといったことが生じる可能性もあります」

果てしない美の追求のリスク
子どもへの規制も必要か

 このような圧力が強まれば、毛の有無を気にするあまり苦悩してしまう人や、みずからの経済状況に合わないほど脱毛治療に没頭してしまう可能性もある。脱毛も含め、そもそも美の追求には終わりがないことが多く、そのバランスの見極めが必要だと鈴木氏は言う。

「人間の理想像というのは往々にして曖昧です。美的に明確な理想像もないため、際限なく追求することが生じ得ます。それ自体は悪いことではなく、個人の経済状況や体への負担がなければある程度はかまわないと考えられます。しかし、心理的な状態によっては、泥沼にハマってしまう危険性もないわけではありません。少しでも毛が生えたら気になってしまって、日常生活が成り立たないというケースは、さすがに問題がある状態といえます。バランスをどう取るか、ブレーキをどうかけるかについても考える必要性があります」

 このような観点から、鈴木氏は、脱毛治療などについては一部規制も必要だという考えを示す。

「現在では、美容整形もそうですが、脱毛に関しても施術の年齢の下限は明確に規定されていないと思います。そのため、子どもでも保護者や施術者が同意すれば受けられます。まだ十分に客観的な判断ができない子どもにとっては、このような状況は問題だと考えられます。一見、子どもの意思のように見えても、そこには親や周囲の影響が少なからずあり、どこまでが当人の意志か明確でない部分もあります。したがって、施術の年齢制限が設定されるのがベターだと思います。また、子どもが過剰な情報に接触できる現状も、検討していく必要があるように思われます」

 今後、人々の脱毛への意識はどのように変遷するのだろうか。

「最近では体毛を生やしたモデルの起用などの例もあり、脱毛に限らず、多様性を認めようという運動も起きています。それ自体はいいと思いますが、あまりに対立があおられすぎると、ますます体毛や見た目を意識することにつながるのではないでしょうか。今後ですが、今の若者は脱毛を経験している人が増えているため、彼らの子ども世代にとっては脱毛は当たり前になる可能性もありえます。もしくは、ファッションの流行のように、前の世代の様式(=脱毛)がダサいと認識され、おこなわれなくなる可能性もゼロとはいえません。なんにせよ、脱毛するにしてもしないにしても、個々人が自由な選択ができる社会が健全だと思います」

 いずれにしろ、どのような状態でも許容する社会になることを期待したい。