【追悼】ウシオ電機創業者・牛尾治朗氏、市場経済を信じ追求した財界の巨星元ウシオ電機会長の牛尾治朗氏。2012年撮影 Photo:JIJI

元経済同友会代表幹事、元経済財政諮問会議議員、そして元ウシオ電機会長の牛尾治朗氏が6月13日に92歳で亡くなった。政界と財界の結節点で活躍し、政財界の人事にも多大な影響を与えた。長年にわたり政策提言も発表してきたが、思考の軸は常に、「資本主義市場経済の原則」にあった。すなわち、自由主義的な規制緩和と行財政改革である。この偉大な財界人の思考の淵源をたどり追悼文としたい(一部敬称略)。(コラムニスト 坪井賢一)

牛尾治朗氏のアナザーストーリー
姫路の牛尾家3代の物語

 牛尾治朗氏(1931~2023)の訃報が出て以降、全国紙の追悼記事をいくつか読んだが、いずれも「若干33歳で父親の事業の一部を継承してウシオ電機を創業したベンチャー経営者」のように書かれていた。確かに、ベンチャー経営者を自認していた節はあるが、その人脈と地盤は、兵庫県姫路市を中心に存在した播磨の大コンツェルン、「牛尾合資」にあった。

 コンツェルンの創始者は、治朗氏の祖父である牛尾梅吉(1864~1934)で、姫路の行商人から当地の米市場、証券市場の仲買人となった人物だ。後に大阪へ出て相場師として財を成し、姫路の大地主にして電力会社、銀行、鉄道会社の大資本家・経営者として成功を収めた。

 明治のインフラ企業の資本家・経営者には、投機で成功して資本を蓄積し、各地の電力会社を所有していた人物が多い。梅吉と同世代の代表的な人物が、松永安左エ門(1875~1971)と福沢桃介(1868~1938)であろう。

 梅吉の長男、牛尾健治(1898~1958)が治朗氏の父親だ。健治は大阪市立大阪高等商業学校(現在の大阪市立大学)を経て、東京商科大学(現在の一橋大学)の第一期生として進学した。治朗氏によると、卒業後は東京の大学で講師を務めていたが、姫路へ呼び戻され、梅吉の没後は36歳で牛尾コンツェルンの代表となった。

 健治は中国地方の電力会社を次々に合併・統合し、1930年代後半には兵庫県、岡山県、鳥取県、島根県をカバーする中国合同電気の社長に就任した。ちょうどこの頃、政府の経済計画を立案していた企画院が、「電力国家管理案」を策定した。

 これは1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発する日中戦争が、局地的で限定的な戦闘から全面戦争へ拡大するに至り、企画院が生産力を総力戦へ集中させるために立案した政策だ。それまで、電力産業は民間企業による自由な競争市場にあり、発電・送電・配電(小売り)会社が多数参入。なんと最盛期には全国に約600社もあったという。1920年代末から徐々に集約が進んだが、1940年前後でも62社が競争していた。

 企画院が考えたのは、電力産業の資本と経営の分離で、これを「民有国営」という。1938年には発電・送電部門の国家独占企業、日本発送電が設立され、39年から全国の発電・送電会社を次々に接収していく。配電会社も1942年には全国を9社へ強制的に集約してしまった。

 電力会社の資本家・経営者は当然、大反対運動を起こしたが、国家権力にはかなわない。やがて彼らは企業から引き離され、福沢桃介や松永安左エ門らは芝居やお茶の世界へ、すなわち道楽へ没頭することになる。

 資本主義とは、だれでも生産要素(資本・土地・労働)を所有し、利潤を得る自由が基盤にある。利潤も資本も国有となるならば、それは資本主義ではなく、社会主義だ。経営者らが大反対するのは当然だった。当時、企画院官僚はソ連のスターリンによる「5カ年計画」をモデルとしていたのである。

 こうして自由な資本家・経営者が圧殺されていく時代、牛尾健治はギリギリまで反対の論陣を張っていた。実は当時、ダイヤモンド誌にも長い論文を発表していたのだ。